キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

東北地方のボランティア -2- 石巻での活動

2011年04月17日 | Weblog
「大阪を出るときに、『素人が1人で行っても迷惑になるだけだよ』と友人に言われました。
そういった後ろめたさもありましたが、それも含めてまずはここへ来たいと思いました。」

作業のお昼休憩のときに、同じ2班のYさんがそう話した。
この作業場には3つの班が配置され、合計で15人くらいが従事していたが、その多くが今回が初めての参加者だった。
そして、このYさんの話に皆がうなずき、共感した。



金曜の夜行バスに乗って、土曜の早朝に仙台に到着。
そこからは、東北福祉大学の「まごのてくらぶ」という団体のアレンジにより石巻市までバスで移動。
バスの中でその日の班分けが発表され、石巻専修大学で着替えなどの準備をした後に、石巻市の被害が大きい地区までバスで移動した。

僕は2班に配置された。
メンバーは、昨日から参加している50代の女性をリーダーとして、先に登場した大阪から来た50代の男性、東京から来た40代の男性、20代の中国人の男性、そして僕を合わせた5人。
リーダーの女性を除いては皆が初参加だった。

2班に派遣指示があったのは、1階が津波で大きく破壊された木造アパートの片づけ。
アパートという大きな現場なので、2班のほかにもう2つの班も派遣され、合計3つの班での作業となった。

現場に行く間の光景は、まるで戦争映画に出てくる市街戦中の街のようだ。
車がぐちゃぐちゃになり、木造家屋の1階が吹き飛んでいて、室内は泥まみれ。
テレビでは何度となく見ていたはずの光景なのに、初めて見るような感覚。
テレビからの映像は、文字通り、画面から流れ出ていただけなのかも。

現場の木造アパートは2階建てで、1階に4つの部屋があった。
でも、今は部屋の仕切りが津波に流され、一つの大きな部屋となっている。
あの日から、そこは手つかずで、家財道具が何から何まで泥をかぶって散乱していた。
もとあった場所に残っているものは何もないくらい、全てが散乱していた。
その一つ一つを皆で外に運び出し、スコップで泥をかき出した。
日の当たらない、部屋の奥の方の泥は、真っ黒になっていて、においも強くなり、へどろになっていた。

床はあちこちに穴が開いていて、梁のない場所を踏むと床を踏み抜いてしまうこともあった。
それくらいに、家は傷んでいた。

これがあの日から一か月間手つかずだったのだ。
今日、ようやくボランティアの手が入ることができた。

11時くらいから作業を始め、30分のお昼休みを挟んで、15時まで続けた。
重たい一つ一つの電化製品を運び出すのも大変だったし、水をすって重くなった畳を持ち上げるのも大変だった。
そして、薄暗く足場の悪い中での泥のかき出しも大変だった。
それでも、メンバーのみんなが明るく、声を掛け合って作業を続けた。
誰もネガティブなことを言わないのは、こういう災害復興のボランティアという性格上のものかもしれない。
部活や仕事だったら、僕も含めて、きっと不平不満が出るもんだ。

と、そんな考えに対するうちの班の女性リーダーの示唆。
「短い時間だからできるんです。
これが朝の9時から夜の17時までだったらできません。
11時から15時までと決まっているからできるんです。
期間も同じで、これを毎日やると思ったら、こんなに元気にはできませんよ」

確かに。
だから、このパワーというか、瞬発力はこういった短期ボランティア特有のものなんだ。
短い期間だけ来て、その期間だけはぐっと大きなパワーを発揮して、そして地元に帰っていく。
そんな短期のボランティアが各地からかわるがわる来ては帰っていく。
それって、すごく大きなエネルギーで、短期のボランティアにしかできないことだと思う。
短期のボランティアって、別の言い方をすれば、誰でもできるボランティアということだ。

作業をしたアパートの隣の民家の一階はやっぱり泥だらけで、家具が散乱していて、でもまだ手つかずのようだった。
たぶん、ボランティを要請しているのだけど、まだ順番が回ってこない家。
そんな家が、本部に戻る道でもたくさん目にした。
まだまだ人が足りていない。

復興資金でボランティアは買えないし、ボランティアがいくらがんばっても復興資金は作れない。
どちらも大切で必要なものだってことに気付いた。



道々で見る、半壊、全壊状態の家屋。
ここまで破壊されていると、危険すぎてもう短期のボランティアでは手が付けれらない。
こうなると、自衛隊や業者が重機を使って作業をするしかない。
ボランティアにはボランティアの、自衛隊には自衛隊の、それぞれが必要とされている場所がある。

でも、考えてみたら、今回作業したアパートの一階をみんなできれいにして、でもそのあとは結局被災した人たち自身による復興しかないんだ。
僕たちができるのは、復興のほんとに最初のところだけで、そのあとの長い長い復興は、あの大家のあばあちゃんがやるんだ。
気の遠くなるような、そんな状況で、心折れずに僕らに感謝の言葉を笑顔で言ってくれる、あのおばあちゃんはすごい。

アパートの、太陽の光の届かない台所の方の薄暗い場所に行くと、急に心細くなって、怖くなった。
日が沈んで、ここが真っ暗になったら、大家さんはどれだけ寂しくて、くじけそうになって、泣きたくなるか。
考えただけでも、気持ちがどうかなってしまいそうだ。

大阪から来たYさんが、作業が終わった後に、大家のおばあちゃんに
「これ、大阪からのお土産です」
といって、おまんじゅうを渡していた。
そのときの、大家さんの恐縮そうだけど、うれしそうな顔。



長々と、とめどなく、思ったことを書いたけれど、まとめとしては、

1) 人はまだまだ足りていないし、一日でも力作業でも単純作業でも仕事はいっぱいある(もちろん、住んでいる地域でできることもある)。
2) 被災者の方々は、これから想像を絶する大変な復興への道を進もうとしている。少しずつでも、日本中のみんながそれを長いスパンで助けられたらと思う。