オーデック ブログ

写真好きの建築女子が綴る、日々のあれこれ!

大谷石地下採掘場跡

2024年12月24日 | 土木の風景
先日、宇都宮へ出かけた際、大谷石地下採掘場跡へ寄ってきました。私は2度目の訪問だったので、以前に紹介しているかもしれません。


この地下採掘場跡の広さは、約2万平方メートル(140m×150m)、深さは平均30m、最深の部分は地下60mにもなります。野球場がすっぽりと入ってしまう地下空間に、初めて来る人はびっくりしますよ~








採掘が本格的に始められた江戸時代の中期頃から、機械化になる昭和34年頃までの手掘り時代の道具といえば、ツルハシ類と石を運ぶ時に使われた背負子ぐらいだったそうです。


手掘り時代には80㎏以上ある石を背負子を使い、1本1本背負って採掘場から運び出したというから、かなりの重労働でした。機械化後のモーターウインチも展示されていました。







トイレや自販機などにも大谷石が使われ、とっても馴染んでいましたね。


リニュアルしたショップ


建築の世界ではフランク・ロイド・ライトが旧帝国ホテルに大谷石を使ったことでも有名です。大谷石独特の石の風合いを生かした内外装の素材として魅力的ですね。また暖炉まわりに使うのも素敵です。宇都宮方面へお出かけの際は、是非寄ってみてください!


大谷資料館
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武田信玄の治水工事に学ぶ

2020年07月22日 | 土木の風景
今だ関東地方の梅雨明けが発表されない。

昨年の台風19号に続き、今年も九州地区を中心に大きな被害が出てしまいました。
今後、ますます起こりうる河川の氾濫にどのように対処するか、治水対策が心配されます。

先週の朝日新聞からです。
茨城県の那珂川や久慈川に、今後、先人の治水工事の知恵がいかされます。


霞堤(かすみてい)は、堤防のある区間に開口部を設け下流側の堤防を堤内地側に延長させて、開口部の上流の堤防と二重になるようにした不連続な堤防。イラストのほうがわかりやすいですね。




ちょうど、歴史家の磯田道史さんの番組
「英雄たちの選択」で、水害と闘った男たちということで、その一人として武田信玄の治水事業が紹介されたのを見ていました。霞堤の原型は、武田信玄が考案したといわれます。


毎年のように起こる想定外の水害、どうすれば人々の安全を守れるのか。
先人たちの叡智が、再び現代にどのように生かされるのか、今後の治水事業に期待したいです。

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勘十郎堀 大貫運河跡(大洗町)

2019年09月28日 | 土木の風景
以前に、茨城町にあります勘十郎堀「紅葉運河」を紹介しましたがその下流にあったのが大貫運河です。



この大貫運河跡の少し上流で川沿いの土地を仲介し、土留め工事中なんです。
この機会に、大貫運河を紹介します。

かつて水戸と江戸を結ぶ内陸水路として、那珂川-涸沼川-涸沼-北浦-利根川と続く、運送路が利用されていました。
涸沼と北浦は陸上輸送でしたが、その解決のために紅葉運河がつくられました。
さらに涸沼川と太平洋をつなぐ、大貫運河の掘削も行われました。

残念ながら、度重なる修復工事。労働力だった農民の怒りも限界、大規模な一揆がおこり・・・責任者だった松浪勘十郎は(まつなみかんじゅうろう)牢獄に入れられ獄死したとのこと。名前の由来がここにあります。



遠くに見えるのが、国道51号線、涸沼川にかかる橋です。
(東側から涸沼川上流に向けて撮影)


こちらは西側から撮った様子


この運河のあった場所は、まっすぐ海の方へ向かうと、大洗港第4埠頭、軍艦なども入ります。


大洗シーサイドステーションや大洗わくわく科学館のある、大きな十字路にぶつかります。
この大貫運河が残っていたら・・・港の開発も違ったものに?


茨城県の水運の歴史を語るうえで、とても大事だった大貫運河と紅葉運河
是非、近くを通った際は、気にかけてご覧になってみてください!


[ご興味ある方は参考に]
関東農政局の運河の開削と宝永の一揆

茨城県の勘十郎堀の紹介

水路をゆく・第二運河
個人の方のブログですがとても詳しく書かれています



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茨城町指定史跡「勘十郎堀跡」

2019年06月08日 | 土木の風景
今日は、茨城空港に近い場所で、農地転用の許可申請による現場立会い。
会社から涸沼のそばを通り約50分、仕事も早く済んだので、道沿いの標識の方向へ車を走らせました。



勘十郎堀跡といわれる、大洗町の大貫運河は見ていましたが、茨城町の紅葉運河は今回初めてです。
真ん中が道路になっていますが、道路の両側に運河の痕跡が見られます。







かつて水戸と江戸を結ぶ内陸水路として、那珂川・涸沼川・涸沼・北浦・利根川が運送路として利用されましたが、涸沼と北浦の間では陸上輸送となるため、この間に運河(紅葉運河)を作ることで、利用の増大と経済の発展、さらには通船税で藩の財政を立て直す予定でしが・・・


(関東農政局の地図です)


延べ130万人が動員されましたが、砂地という地質も悪かったようで・・・絶えず修復工事に追われていたようです。
農民たちは田畑を耕すこともできず、過酷な労働と賃金が払われないなどで1708年には農民一揆がおこり、松波勘十郎は改革の責任をとり牢獄に入れられ獄死したそうです。今はうっそうと緑に覆われていますが、まわりの地形からみても掘削した深さの苦労が想像できます。






もしこれらの運河が残っていたら、大洗町の大貫運河から紅葉運河まで、今ならサイクリングロードにでもなっていたかもしれませんね。


[勘十郎堀についての詳しく説明]

運河の掘削と宝永の一揆(関東農政局)

茨城県の紹介のページ


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花貫川第一発電所第3号水路橋

2017年08月08日 | 土木の風景
仕事で高萩まで来たついでに、花貫ダム近くの「水路橋」を見てきました。


国の登録有形文化財になっています。
この水路橋は、大正7年に花貫川から水力発電用の水を引くために造られたもの。

鉄筋コンクリート造の2連アーチ橋で、通称「めがね橋」と呼ばれています。(橋長77m、高さ22m)






木立の中にひっそり、なんだか萌えます~現在も現役で使用されている、高萩市の貴重な土木遺産です!

当時、施工したのが、現在の大手ゼネコンの鹿島。(昔は、鹿島組)なんと、ホームページでは鹿島の軌跡というコーナーで<ahref="http://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki20/index-j.html">花貫川水力発電の逸話が紹介されています。

秋の紅葉時期には、大変混みあう花貫渓谷
来年は、建設からちょうど100年、茨城の誇れる近代遺産ですね!
ご興味ある方、是非お出かけください!



茨城県教育委員会
「花貫川第一発電所第3号水路橋」
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