中学二年生の冬に、ジャズを聴く楽しみを知ったことを前回お話ししました。
実際にジャズを演奏するようになったのは、神宮球場と秩父宮ラグビー場の向い側にある都立青山高校に入学した春でした。
自由参加の校内フォークソング・コンサートで、助っ人でウッドベースを弾いていたのが、先輩から声をかけられるきっかけでした。
中学時代に、ブラバンの練習の合間に、音楽室にあったコントラバスで三年間遊んでいたので、素人なりに、それなりの音が出ていたのだろうと思います。
さて、声をかけられた翌日の昼休みに軽音楽サークルの部室に行ったところ、そこには長髪・色白の細おもての三年生が一人いらっしゃいました。
『君は、どんな音楽を聴いてるの?』
『ベース奏者は誰が好きなんだい?』
何か口頭試問を受けるような感じとなり、私はしどろもどろになっていまいました。
ただ、その先輩が醸し出す、いかにも音楽家っぽい雰囲気に魅せられて、私もジャズ・ベースを一から勉強してみようと決心したのでした。
その先輩は、練習には滅多に顔を出さないのですが、たまに譜面を小脇に抱えて現れて、『部屋の外で少し聴いていたけれど、君も良い感じの音が出るようになったね』なんて嬉しいコメントをくれて、ピアノの前に座るとチック・コリアみたいなフレーズをさらりと披露する方でした。
その先輩は、井上鑑(あきら)さんという、今や当代一流のプロのアレンジャー。
大学は桐朋音大に進まれました。
ご存知ない方は、ぜひネット検索してみてください。昔も今も、とてもカッコいい方ですから。
そんな先輩に鍛えられて、二年生の頃からは、噂を聞き付けては他校の文化祭に乗り込んで、そこのジャズ研と腕試しをしたり、エキストラでナイト・クラブに出演してバイト代をもらうようなことをやった楽しい時代でした。
ジャズを通じて、凄い先輩に出会うことができて幸せでしたね。
なお、井上さんと同期の野球部には、石田太郎さんという方もいらっしゃいました。
実はこの方、俳優の石田純一さん。
ちなみに石田さんは、早稲田に進まれました。
また、一学年下には『マーブル・チョコレート』のCMで有名になった上原ゆかりさんもいまして、彼女は確か東京女子大に進みました。
悪名高き学校群制度により、戸山か青山へと機械的に割り振られて入学したのですが、結果的に、とても都会っぽくて、自由で楽しい高校で幸運でした。
実際にジャズを演奏するようになったのは、神宮球場と秩父宮ラグビー場の向い側にある都立青山高校に入学した春でした。
自由参加の校内フォークソング・コンサートで、助っ人でウッドベースを弾いていたのが、先輩から声をかけられるきっかけでした。
中学時代に、ブラバンの練習の合間に、音楽室にあったコントラバスで三年間遊んでいたので、素人なりに、それなりの音が出ていたのだろうと思います。
さて、声をかけられた翌日の昼休みに軽音楽サークルの部室に行ったところ、そこには長髪・色白の細おもての三年生が一人いらっしゃいました。
『君は、どんな音楽を聴いてるの?』
『ベース奏者は誰が好きなんだい?』
何か口頭試問を受けるような感じとなり、私はしどろもどろになっていまいました。
ただ、その先輩が醸し出す、いかにも音楽家っぽい雰囲気に魅せられて、私もジャズ・ベースを一から勉強してみようと決心したのでした。
その先輩は、練習には滅多に顔を出さないのですが、たまに譜面を小脇に抱えて現れて、『部屋の外で少し聴いていたけれど、君も良い感じの音が出るようになったね』なんて嬉しいコメントをくれて、ピアノの前に座るとチック・コリアみたいなフレーズをさらりと披露する方でした。
その先輩は、井上鑑(あきら)さんという、今や当代一流のプロのアレンジャー。
大学は桐朋音大に進まれました。
ご存知ない方は、ぜひネット検索してみてください。昔も今も、とてもカッコいい方ですから。
そんな先輩に鍛えられて、二年生の頃からは、噂を聞き付けては他校の文化祭に乗り込んで、そこのジャズ研と腕試しをしたり、エキストラでナイト・クラブに出演してバイト代をもらうようなことをやった楽しい時代でした。
ジャズを通じて、凄い先輩に出会うことができて幸せでしたね。
なお、井上さんと同期の野球部には、石田太郎さんという方もいらっしゃいました。
実はこの方、俳優の石田純一さん。
ちなみに石田さんは、早稲田に進まれました。
また、一学年下には『マーブル・チョコレート』のCMで有名になった上原ゆかりさんもいまして、彼女は確か東京女子大に進みました。
悪名高き学校群制度により、戸山か青山へと機械的に割り振られて入学したのですが、結果的に、とても都会っぽくて、自由で楽しい高校で幸運でした。