心理学では役割理論というものがあるらしい。役割とは周囲から期待されている行動様式のことで、それを自己に取り入れて期待されている行動をとる傾向がある、とのことだ。例を挙げると、スポーツで補欠になったとして、なにくそと思ってレギュラーを奪うよりも、立派な補欠が出来上がるほうが多い、みたいな感じらしい。詳しいことはわからないが、環境適応、自己肯定の自然な心理であると思う。
近代的自我は自分の理想像があって常に現状とつき合わせては自己否定をする、と教養課程のとき習った気がするが、それ以上に自己肯定の心理は本能的に強く働いているように思う。そうでなければ自殺者が数倍になっていることだろう。辛いことがあっても、遅くても数ヵ月後には自己肯定できる思考が組み立てられて取り敢えず前向きになることができるものだ。
人間性を疑われそうな例を出して恐縮だが、以前麗しい女性との恋を手に入れるかどうかというとき、その日の占いも星5つで相手にも気がアリなんて言っていて、実際いい雰囲気の店で話してみて向こうも思わせぶりな態度をとるんだかとらないんだかで結構な好条件が揃っていたのだけど、どうしても確証がもてず、また向かい合って座ったために接近しづらくて「今日はやめておこう」と心の中で決断した。そのときはこれまでの気概はどうしたんだ、男として情けないと思ったのだが、数分と経たぬうちに、この控えめな性格のおかげで言葉にこだわって遠まわしに言ったり書いたりする楽しみをもったのだから、それが自分に相応しいやり方だ、なんていうひどくキチガイな考えが浮かんできた。当然すぐ我に帰ってがっくりきたのだが、とっさに浮かぶ自己肯定とはすごいものだと驚いた。
自分に限らず、他者の自己肯定にハッとすることもある。自分がもしその人の立場にあったら非常に辛いだろうと思うようなとき、力の限りで助けになりそうなことを用意して話す機会を設けてみても、彼はその状況下でなんとかやってきたので対処術をそれなりに心得ており、意外とあっけらかんとしていて、自分にできることは特にないと気付く。マリーゴールドに対して私がすべきだったことは「何もしないこと」であり、わざわざ肥料を与えたりする必要はないのである。
このように自分の感覚と相手の感覚に開きがある現象は、社会を見渡しても散見される。フリーター・ニート問題で本人たちへのインタビューがたまにあるが、今のままでもそれなりに楽しい、というコメントが予想以上に多い。大学で生活保護法のケースを学んだが、ホームレスなど、当人に自立する意思がないという根本的な問題があり、精神的なケアという難しい課題が横たわっている。海外ボランティアのドキュメンタリーを見ても、医療や食料など最低限を満たす援助を超えて自立のために新しい農作物や産業などを根付かそうとするときは、現地の人の理解は容易には得られず、必ず説得するプロセスがある。
これらの場面では、彼らの自己肯定の心理を尊重し状況を放置することは果たして妥当か、という疑問がつきまとってくる。これは法の問題としては個人の内心の自由をどこまで尊重するかということであり、対人関係の問題としては、相手の状況と抱く考えをきちんと認識できるか、考えを変えるよう働きかける必要性はあるのか、うまく働きかけるにはどうすべきか、ということである。自立支援・途上国援助のような問題と向き合うときには、これらの点に注意すべきことになるだろう。
近代的自我は自分の理想像があって常に現状とつき合わせては自己否定をする、と教養課程のとき習った気がするが、それ以上に自己肯定の心理は本能的に強く働いているように思う。そうでなければ自殺者が数倍になっていることだろう。辛いことがあっても、遅くても数ヵ月後には自己肯定できる思考が組み立てられて取り敢えず前向きになることができるものだ。
人間性を疑われそうな例を出して恐縮だが、以前麗しい女性との恋を手に入れるかどうかというとき、その日の占いも星5つで相手にも気がアリなんて言っていて、実際いい雰囲気の店で話してみて向こうも思わせぶりな態度をとるんだかとらないんだかで結構な好条件が揃っていたのだけど、どうしても確証がもてず、また向かい合って座ったために接近しづらくて「今日はやめておこう」と心の中で決断した。そのときはこれまでの気概はどうしたんだ、男として情けないと思ったのだが、数分と経たぬうちに、この控えめな性格のおかげで言葉にこだわって遠まわしに言ったり書いたりする楽しみをもったのだから、それが自分に相応しいやり方だ、なんていうひどくキチガイな考えが浮かんできた。当然すぐ我に帰ってがっくりきたのだが、とっさに浮かぶ自己肯定とはすごいものだと驚いた。
自分に限らず、他者の自己肯定にハッとすることもある。自分がもしその人の立場にあったら非常に辛いだろうと思うようなとき、力の限りで助けになりそうなことを用意して話す機会を設けてみても、彼はその状況下でなんとかやってきたので対処術をそれなりに心得ており、意外とあっけらかんとしていて、自分にできることは特にないと気付く。マリーゴールドに対して私がすべきだったことは「何もしないこと」であり、わざわざ肥料を与えたりする必要はないのである。
このように自分の感覚と相手の感覚に開きがある現象は、社会を見渡しても散見される。フリーター・ニート問題で本人たちへのインタビューがたまにあるが、今のままでもそれなりに楽しい、というコメントが予想以上に多い。大学で生活保護法のケースを学んだが、ホームレスなど、当人に自立する意思がないという根本的な問題があり、精神的なケアという難しい課題が横たわっている。海外ボランティアのドキュメンタリーを見ても、医療や食料など最低限を満たす援助を超えて自立のために新しい農作物や産業などを根付かそうとするときは、現地の人の理解は容易には得られず、必ず説得するプロセスがある。
これらの場面では、彼らの自己肯定の心理を尊重し状況を放置することは果たして妥当か、という疑問がつきまとってくる。これは法の問題としては個人の内心の自由をどこまで尊重するかということであり、対人関係の問題としては、相手の状況と抱く考えをきちんと認識できるか、考えを変えるよう働きかける必要性はあるのか、うまく働きかけるにはどうすべきか、ということである。自立支援・途上国援助のような問題と向き合うときには、これらの点に注意すべきことになるだろう。