順風ESSAYS

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法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
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What's for others?

2006年05月25日 | 時事
心理学では役割理論というものがあるらしい。役割とは周囲から期待されている行動様式のことで、それを自己に取り入れて期待されている行動をとる傾向がある、とのことだ。例を挙げると、スポーツで補欠になったとして、なにくそと思ってレギュラーを奪うよりも、立派な補欠が出来上がるほうが多い、みたいな感じらしい。詳しいことはわからないが、環境適応、自己肯定の自然な心理であると思う。

近代的自我は自分の理想像があって常に現状とつき合わせては自己否定をする、と教養課程のとき習った気がするが、それ以上に自己肯定の心理は本能的に強く働いているように思う。そうでなければ自殺者が数倍になっていることだろう。辛いことがあっても、遅くても数ヵ月後には自己肯定できる思考が組み立てられて取り敢えず前向きになることができるものだ。

人間性を疑われそうな例を出して恐縮だが、以前麗しい女性との恋を手に入れるかどうかというとき、その日の占いも星5つで相手にも気がアリなんて言っていて、実際いい雰囲気の店で話してみて向こうも思わせぶりな態度をとるんだかとらないんだかで結構な好条件が揃っていたのだけど、どうしても確証がもてず、また向かい合って座ったために接近しづらくて「今日はやめておこう」と心の中で決断した。そのときはこれまでの気概はどうしたんだ、男として情けないと思ったのだが、数分と経たぬうちに、この控えめな性格のおかげで言葉にこだわって遠まわしに言ったり書いたりする楽しみをもったのだから、それが自分に相応しいやり方だ、なんていうひどくキチガイな考えが浮かんできた。当然すぐ我に帰ってがっくりきたのだが、とっさに浮かぶ自己肯定とはすごいものだと驚いた。

自分に限らず、他者の自己肯定にハッとすることもある。自分がもしその人の立場にあったら非常に辛いだろうと思うようなとき、力の限りで助けになりそうなことを用意して話す機会を設けてみても、彼はその状況下でなんとかやってきたので対処術をそれなりに心得ており、意外とあっけらかんとしていて、自分にできることは特にないと気付く。マリーゴールドに対して私がすべきだったことは「何もしないこと」であり、わざわざ肥料を与えたりする必要はないのである。

このように自分の感覚と相手の感覚に開きがある現象は、社会を見渡しても散見される。フリーター・ニート問題で本人たちへのインタビューがたまにあるが、今のままでもそれなりに楽しい、というコメントが予想以上に多い。大学で生活保護法のケースを学んだが、ホームレスなど、当人に自立する意思がないという根本的な問題があり、精神的なケアという難しい課題が横たわっている。海外ボランティアのドキュメンタリーを見ても、医療や食料など最低限を満たす援助を超えて自立のために新しい農作物や産業などを根付かそうとするときは、現地の人の理解は容易には得られず、必ず説得するプロセスがある。

これらの場面では、彼らの自己肯定の心理を尊重し状況を放置することは果たして妥当か、という疑問がつきまとってくる。これは法の問題としては個人の内心の自由をどこまで尊重するかということであり、対人関係の問題としては、相手の状況と抱く考えをきちんと認識できるか、考えを変えるよう働きかける必要性はあるのか、うまく働きかけるにはどうすべきか、ということである。自立支援・途上国援助のような問題と向き合うときには、これらの点に注意すべきことになるだろう。

マリーゴールド

2006年05月25日 | essay
宗教心から創られる美術や建築の美しさには心は奪われるが、その教義が現代において違和感なく受け入れられるのは難しい。キリスト教など、生まれながらにしての罪という点がどうしても納得がいかない。キリスト教倫理との葛藤に青年時代のエネルギーを費やした人の記述を目にすることがあるが、宗教意識が希薄でそのような苦労がない日本に生まれて幸いだと思う。ところで、教会には懺悔室というものがあって、負い目に感じていることを告白させて心を少し安楽にさせてやろうという機能をもつらしい。ここでは幼き頃の出来事を告白して懺悔したいと思う。もっともその動機は、胸につかえているからではなく次の記事の布石のためであるのだが。

マリーゴールドという花がある。鮮やかな黄色~橙色のキクに似た花なのだが、小学校3年生のとき、小学校の畑に咲いているこの花を切花にして水栽培をしよう、という授業があった。水に入れると根っこを出して長い間花がもつのだ。早速畑に行って好みの株を選んで切り取る。小学生というのは小さいことにも真剣なので綺麗に咲く株を丹念に探していった。そして見つけたのは、小ぶりで細く、花びらの形が美しく整ったものであった。私はすっかり惚れこんでその花を切り取ろうと手を伸ばした。しかし、その手よりもわずかに早く、クラスメイトの一人がその花を手中に入れた。私は驚いて、それは自分もいいなと思ったものだ、と言って彼と交渉しようとした。でも「俺が先にとったもんね」とぶっきらぼうに返されてさっさと行ってしまった。本命を取られてしまった私は仕方なくその辺りにあったものを適当に選んだ。

水栽培にあたり、よく根が出るコツは茎を刺激しないようにすることだと教わる。一人ひとつずつガラスの小さな花瓶に入れて窓際に並べていく。私もそれに従うのだが、どうしても自分の花に愛着が沸かない。無骨に大きくて慎ましやかな感じがしないし、花びらも一部乱れていてバランスがとれていない。あの綺麗な株への羨ましさが募るばかり。次の休み時間、みんなが並べた花をざっとみていく。やっぱりあの花が一番綺麗だ。何気なく、茎を花瓶の縁にこすりつけてしまった。1週間も経てば、当然の事ながら、彼の花は根が十分に出ず見るも無残な姿になる。鮮やかな黄色の花びらはどす黒さを帯びたオレンジに変色してしまっていた。「どうしてこうなっちゃったのかな」と首をかしげる彼を横に私は無言だったが、大変後悔した。彼にとってはもちろん、自分にとっても最も望まない結果ではないか。

一度惚れ込んだものに対しては、例えそれが自分の思い通りにいかなかったとしても、出来る限りの支援をして輝く姿を見守ろう、と固く誓った。