以前、ブログの読者の人から、だいたい下記のような相談をいただきました。
「感謝し賛美したい。けれども自分の人生を思うと、もちろん悪いのは自分ですが、助けを求めても助けてくれなかった主を賛美する気になれない」と。他は、借金を返済し楽になりたいというものでした。
この方はクリスチャンです。この相談をいただいて以降、私はいつもこの方のことが気になり、ことあるごとに祈ってきました。
一番気になるのは「神に助けを求めても、助けてはもらえなかった」とされている点です。これは神を信じる者にとって、深刻な、そして切実な問題です。
「そんなはずはありません」と即座に申し上げたいところですが、実は私自身も長く(30年も)、神さまは答えてくれないんだ、と思っていました。ところが相談者のように、大変な困難、試練にあって、家族の癒しでしたが、どうしても祈りに答えてもらわなければ破滅という時、本当に叫び、わめき、祈り続けました。でも、まったく無視されたように、神は沈黙されたままでした。そして最後は神に、かなり腹を立てるようになってしまいました。その姿に自分の罪深さを深刻に悔い改め、神のあわれみによって神が語りかけてくださる恵に与ったのですが。
今になって思うのですが、その時私は、祈りは、神さまが打ち出の小槌かドラえもんのポケットのように、自分に都合の良いことをかなえてくれるものと思っていましたし、そのような祈りをしていたのです。確かに神さまは、そんな場合でもお答えになることもあるでしょう。しかし神が本当に愛そうとされている方には、かえってお答えになりません。なぜでしょう?
人間の親だって、子どもがねだるものを無制限に与えたりはしません。子どもが食事よりも「お菓子、お菓子がほしい」とねだっても、安易には与えたりはしないでしょう?子どものためにならないからです。祈りが答えられないのは、それが私のためにならないからなのです。
キリストだって、ゲッセマネの園で額から汗が流れ落ちるほど祈られました。が、最後は自分の思いではなく、「父の御心」にすべてを委ねられる祈りになりました。良いことしかされなかったのに、父の御心はむごい十字架にかかることでした。が、キリストは従われました。それが人類にとってどれほど素晴らしものになったことでしょうか!
私の経験では、祈りが答えられない原因はただ一つ、祈る人間の側にありました。その祈りがかなうのは、かえって私のためにはなりませんでした。祈りがかなわないことにも、神さまの忍耐と深い愛、私に気づかせたい意図がありました。私は本当に放蕩息子でした。
祈りは信仰が土台なのです。神を神とし、主とする信仰がなければ、その祈りは自己の欲求を実現しようとする手段でしかありません。それで祈りを叶えていたら、それでよいと思うでしょう。またAはかなえていただき、どうして同じBはかなえられないのか?と混乱するでしょう。キリストのお手本のように、先ず自分自身を神に捧げる聖なる捧げもの(献身)にされ、神に聞き従うものとなられる信仰が土台だと思います。
とは言え、「では具体的には、私はどのように祈ったらよいのでしょうか?」と聞こえそうです。真に聖霊のバプテスマを受けられ、新生を体験されるなら、肉なる自分が死に、自分の内の聖霊なる神に従って歩む・・・・すると御心の祈りが開かれるはずなのです。牧師はそのために、同労者として多少なりとも導きをするためのお手伝いができるはずです。個々人への適用は対話が必要です・・・・どうか教会でお待ちいたしております。 (ケパ)
TLCCC船橋キリスト教会 http://tlcccfunabashi.net/