きょうからはじまった「本橋成一写真展 屠場」をリバティおおさかへ見に行く。
本橋成一氏は炭坑で働く人びとや沖縄離島の漁師たち、原発事故で被爆したベラルーシの村に暮らす人びとなど、一貫して労働者の生活を記録してきた。
人間が生きるとはどういうことか、生命となにかをシャープな視線で切り取ってきた。
そのブレない視線で今度は大阪の被差別を撮っている。
被差別の起源には諸説あって、わたしがここで解説できるほどの知識はないしスペースもない。
ただはっきりしているのは、歴史的にみてこれはつくられたものであるということだ。
国をうまく治めるために時の為政者が民衆の差別心やケガレ意識をたくみに利用してきたのである。
そのなかで屠畜業は「ケガレ」た仕事として被差別に固定されてきた。
いまこうしたことを話題にしないのは差別がなくなったというわけではなく、わたしたちの心のどこかにフィルターがあって、その話題には触れないでおこうとしているだけだと思う。
さて「屠場」(とばと読む)であるが、彼の写真は声高に反差別を訴えているのではない。
ただ、たんたんと屠場のようすを記録しているだけだ。
だがその写真群から見えてくるものは、屠場に生きる人びとのようすであり、人間と牛とのかかわりであり、さらにそれを食するわたしたちとのつながりである。
もっといえば、日本の食文化からわたしたちの生き方までもが見えてくるのだ。
じつは本橋氏はこの屠場の撮影を25年もまえから続けている。
今回の写真展は最近撮りおろした写真も含め、屠場シリーズの集大成といえるだろう。
同時に出版された写真集のまえがきで本橋氏はこんなことを書いている。
「あの時代、大人も子どもも一片の肉のありがたさを知っていた。生きものとして、食としてのいのちのつながりが見えていた。いま日本をはじめ食にあふれた国々では、食するために他の生きものたちを屠るために機械や電気やガスを使い、自らの手で殺さなくなった。食するために他の生きものたちは命がけで闘う。せめて人間が食するものは人間の手で殺すべきではないか、それが相手に対する礼儀ではないか」
ナイフ1本で牛に立ち向かう熟練した作業員たちに、本橋氏はライカ1台で立ち向かう。
そんな誇り高き職人(あえてそう呼びたい)同士の闘いが目に浮かぶようである。
大震災によってわたしたちは自分の生活を足下から見直そうとしている。
こんな時期だからこそ、心のフィルターを取りはらって、まっすぐな眼でこれらの写真を見たいと思う。
そこから見えてくるものは、とりもなおさずわたしたちの日々の生活に直結していることだから。
本橋成一氏は炭坑で働く人びとや沖縄離島の漁師たち、原発事故で被爆したベラルーシの村に暮らす人びとなど、一貫して労働者の生活を記録してきた。
人間が生きるとはどういうことか、生命となにかをシャープな視線で切り取ってきた。
そのブレない視線で今度は大阪の被差別を撮っている。
被差別の起源には諸説あって、わたしがここで解説できるほどの知識はないしスペースもない。
ただはっきりしているのは、歴史的にみてこれはつくられたものであるということだ。
国をうまく治めるために時の為政者が民衆の差別心やケガレ意識をたくみに利用してきたのである。
そのなかで屠畜業は「ケガレ」た仕事として被差別に固定されてきた。
いまこうしたことを話題にしないのは差別がなくなったというわけではなく、わたしたちの心のどこかにフィルターがあって、その話題には触れないでおこうとしているだけだと思う。
さて「屠場」(とばと読む)であるが、彼の写真は声高に反差別を訴えているのではない。
ただ、たんたんと屠場のようすを記録しているだけだ。
だがその写真群から見えてくるものは、屠場に生きる人びとのようすであり、人間と牛とのかかわりであり、さらにそれを食するわたしたちとのつながりである。
もっといえば、日本の食文化からわたしたちの生き方までもが見えてくるのだ。
じつは本橋氏はこの屠場の撮影を25年もまえから続けている。
今回の写真展は最近撮りおろした写真も含め、屠場シリーズの集大成といえるだろう。
同時に出版された写真集のまえがきで本橋氏はこんなことを書いている。
「あの時代、大人も子どもも一片の肉のありがたさを知っていた。生きものとして、食としてのいのちのつながりが見えていた。いま日本をはじめ食にあふれた国々では、食するために他の生きものたちを屠るために機械や電気やガスを使い、自らの手で殺さなくなった。食するために他の生きものたちは命がけで闘う。せめて人間が食するものは人間の手で殺すべきではないか、それが相手に対する礼儀ではないか」
ナイフ1本で牛に立ち向かう熟練した作業員たちに、本橋氏はライカ1台で立ち向かう。
そんな誇り高き職人(あえてそう呼びたい)同士の闘いが目に浮かぶようである。
大震災によってわたしたちは自分の生活を足下から見直そうとしている。
こんな時期だからこそ、心のフィルターを取りはらって、まっすぐな眼でこれらの写真を見たいと思う。
そこから見えてくるものは、とりもなおさずわたしたちの日々の生活に直結していることだから。