せっかくフィルムで写真制作を再開したのに、いつものプロラボではもう現像してもらえなくなり、出ばなをくじかれたことは先日書いた。
いろいろ考えた末に出した答えは「それでもフィルムで撮る」である。
フィルム現像をプロラボへ出すと、フィルム代とあわせて1本1200円にもなるので、1シャッターにかかるコストは33円とすこし。
こういうコスト計算をしだすといまさらフィルムでなんか撮れないという人が大半であろうが、それでもなおフィルムで撮ることの意味はなにか。
ある人は「この空気感がいい」といい、またある人は「この写らなさが想像をかきたてる」という。さらにちがう人は「このざらざらした感じが最高」といい、また「1枚1枚に魂がこもる」という人もいるだろう。
でもこんなに抽象的なことばではふつうの人にはフィルムの優位性は理解しにくい。フィルムの方がいい写真が撮れるなんて、一種の妄想だといわれてもしかたがないだろう。
「フィルムで撮った写真のよさはわかるヤツにしかわからない」という、やや排他的優越主義的(こんな言葉あるのか?)な気分すらある。
ただ最近わたしが気づいたことは、(いまさらだけど)デジカメで撮った写真とフィルムで撮った写真とはまったく別ものだということ。
おなじ平面の静止画なので、おなじものだとカンちがいする人が多いけど、それは絵画と写真とのちがいくらい、大きな差がある。メディア自体がちがうものだといってもいい。
だから、いくらお金がかかってもフィルムの替わりにデジタルということにはならないのである。
とりわけ黒の濃淡だけで表現するモノクロ写真は、写真というより木炭デッサンなどにちかい。
だとすると、わたしは木炭の替わりにモノクロフィルムで絵を描こうとしているのかもしれない。
まあとにかく、しばらくフィルムで撮ってみて、なにが出てくるのか見きわめてみようと思う。
(上の写真はオフィチエンチム収容所でユダヤ人から没収したメガネ)
いろいろ考えた末に出した答えは「それでもフィルムで撮る」である。
フィルム現像をプロラボへ出すと、フィルム代とあわせて1本1200円にもなるので、1シャッターにかかるコストは33円とすこし。
こういうコスト計算をしだすといまさらフィルムでなんか撮れないという人が大半であろうが、それでもなおフィルムで撮ることの意味はなにか。
ある人は「この空気感がいい」といい、またある人は「この写らなさが想像をかきたてる」という。さらにちがう人は「このざらざらした感じが最高」といい、また「1枚1枚に魂がこもる」という人もいるだろう。
でもこんなに抽象的なことばではふつうの人にはフィルムの優位性は理解しにくい。フィルムの方がいい写真が撮れるなんて、一種の妄想だといわれてもしかたがないだろう。
「フィルムで撮った写真のよさはわかるヤツにしかわからない」という、やや排他的優越主義的(こんな言葉あるのか?)な気分すらある。
ただ最近わたしが気づいたことは、(いまさらだけど)デジカメで撮った写真とフィルムで撮った写真とはまったく別ものだということ。
おなじ平面の静止画なので、おなじものだとカンちがいする人が多いけど、それは絵画と写真とのちがいくらい、大きな差がある。メディア自体がちがうものだといってもいい。
だから、いくらお金がかかってもフィルムの替わりにデジタルということにはならないのである。
とりわけ黒の濃淡だけで表現するモノクロ写真は、写真というより木炭デッサンなどにちかい。
だとすると、わたしは木炭の替わりにモノクロフィルムで絵を描こうとしているのかもしれない。
まあとにかく、しばらくフィルムで撮ってみて、なにが出てくるのか見きわめてみようと思う。
(上の写真はオフィチエンチム収容所でユダヤ人から没収したメガネ)