キャストが多彩で、しかも皆大熱演で画面は始終騒々しい。だが、中盤以降は眠気さえ覚えてしまった。理由はビートたけし扮する暴力極道オヤジの描き方が中途半端なためである。
こういうキャラクターは内面を鋭くえぐって容赦なくアイデンティティーに迫るか、あるいは理解不能の怪物として徹底的に突き放すか、どちらかに専念するべきだ。ところが映画の主人公は見境なく暴れると思ったら身障者の愛人に対して優しい態度を取ったり、何やら一貫性に乏しい。中心人物がそんな調子だから、周りがいくら盛り上げようとしても、映画自体はバラエティ番組にしかならないのだ。
これはたぶん長大な原作を2時間に収めようとした無理が祟っているのだと思う。映画の冒頭に希望に満ちた表情で大阪に辿り着く若き日の主人公(伊藤淳史)と、ヤクザな中年男とは全く結び付かない。彼が夢破れて絶望して結局“世の中カネや。女子供はモノと一緒や!”というニヒリズムに浸るようになる、そのプロセスこそを描くべきではなかったのか。
当然そこには戦中・戦後の日本社会における在日朝鮮人の位置という、かなりデリケートかつハードな題材を扱う必要性が出てきて、製作側として二の足を踏んだ事は想像に難くない。だが、それにチャレンジしないと映画化する意味がないと思う。
崔洋一の演出は大きな破綻はなく、この監督にしてはマシな方。時代考証に裏打ちされたセットは見事だ(まあ、最近の「ALWAYS 三丁目の夕日」には負けるけど)。出演者陣では前半呆気なく退場してしまうオダギリジョーと、薄幸の娘を演じた田畑智子が印象に残った。
こういうキャラクターは内面を鋭くえぐって容赦なくアイデンティティーに迫るか、あるいは理解不能の怪物として徹底的に突き放すか、どちらかに専念するべきだ。ところが映画の主人公は見境なく暴れると思ったら身障者の愛人に対して優しい態度を取ったり、何やら一貫性に乏しい。中心人物がそんな調子だから、周りがいくら盛り上げようとしても、映画自体はバラエティ番組にしかならないのだ。
これはたぶん長大な原作を2時間に収めようとした無理が祟っているのだと思う。映画の冒頭に希望に満ちた表情で大阪に辿り着く若き日の主人公(伊藤淳史)と、ヤクザな中年男とは全く結び付かない。彼が夢破れて絶望して結局“世の中カネや。女子供はモノと一緒や!”というニヒリズムに浸るようになる、そのプロセスこそを描くべきではなかったのか。
当然そこには戦中・戦後の日本社会における在日朝鮮人の位置という、かなりデリケートかつハードな題材を扱う必要性が出てきて、製作側として二の足を踏んだ事は想像に難くない。だが、それにチャレンジしないと映画化する意味がないと思う。
崔洋一の演出は大きな破綻はなく、この監督にしてはマシな方。時代考証に裏打ちされたセットは見事だ(まあ、最近の「ALWAYS 三丁目の夕日」には負けるけど)。出演者陣では前半呆気なく退場してしまうオダギリジョーと、薄幸の娘を演じた田畑智子が印象に残った。


