去る6月15日、国と自治体、事業主、国民に自殺対策の責務を課した「自殺対策基本法」案が衆院本会議で可決、成立した。
(引用開始)
(この法の)基本理念として、自殺は「個人的な問題としてのみとらえるのではなく、その背景に社会的な要因がある」と指摘し、社会問題と位置づける。そのうえで、国と自治体に「自殺防止対策を策定し、実施する責務がある」ことを条文化する。(中略)このほか、国と自治体は、自殺防止に関して調査研究を推進し、情報の収集や分析、提供を行うとする。一般国民に対して、教育や広報などを通じて、必要な施策を実施することも明文化する。(毎日新聞 2006年5月14日)
(引用終了)
法の概要そのものにはそれほど間違ったことは書いていないようだが、それ以前の、肝心の対策の方向性そのものが完全にピントが外れていると思うのは私だけだろうか。
警察庁が2003年に発表した原因・動機別・年齢別自殺者数(遺書ありのみ)の資料では、原因の中で一番多いのが健康問題 で37.5%にものぼる。次に経済苦で35.2%。実にこの二つで全体の7割以上を占めている。問題解決の手法としては、大きな原因から片付けるのが定石だ。健康問題に関しては、これはもう医療機関に頑張ってもらうしかない。よって、現時点でつぶすべき優先順位は経済問題ということになる。しかも、経済的な問題は一位の健康問題と大きな部分でリンクしていると思われる。なぜなら“先立つもの”がなければ治る病気も治らないし、退院・快癒後のアフターケアも覚束ないからだ。
では、その庶民が被る経済苦を低減させるようにするにはどうしたらいいか。そんなのは知れたこと、景気を良くすればいいのである。一般ピープルにも、困窮しないだけのカネが回ってくるようにすれば良いのである。
前にも書いたが、マスコミの“景気は回復した!”というスローガンは嘘っぱちである。儲かっているのは一部の輸出関連大企業の幹部のみ。どうすれば本物の景気が回復し、一般庶民が経済苦に陥らずに済むのかは別の機会に書くとして、この“根本的な解決策”を提示せず、やれ“情報の収集や分析、提供を行う”といった、具体的なようでいて実は抽象的な掛け声の羅列に終始する“自殺対策法”の存在理由とは、ズバリ“誰も責任を取りたくない”ってことに尽きるのではないか。
いくら小泉首相が“格差が出るのは仕方がない(=経済苦で悩む者が多くなってもやむを得ない)”と言っても、自殺者が増えている事実は厳然としてある。だから当局側としては何かアクションを起こさなければならない。でも、本気で問題解決を図るとなると“大きな原因から潰すこと”それ自体が理詰めの展開の発端となり、当然そうなると“結果”を求められる。政治家も役人も、そんな面倒な立場はゴメンである。だから“教育や広報などを通じて、必要な施策を実施しよう”みたいな、御為ごかしの対策しか打とうとしないのだ。対策自体がスローガンならば、結果が伴わなくても“おかしいなァ”とトボケていればいい。そして“何か対策をやりました”という事実・実績のみが残る。まるで笑えない笑い話。そんな間にも、経済苦で人生を全うするハメになる者は後を絶たない。
こうなれば政治家も官僚も学者も“自殺するのは本人が悪い! 自殺するならするで、我々の迷惑にならないところで、ひっそりとやってくれ!”と、“本音”をブチあげたらどうなんだ。そうなりゃ誰だって眉ぐらいひそめるだろう(冷笑)。もっともらしいスローガンの連呼など、百害あって一利無しだ。
(引用開始)
(この法の)基本理念として、自殺は「個人的な問題としてのみとらえるのではなく、その背景に社会的な要因がある」と指摘し、社会問題と位置づける。そのうえで、国と自治体に「自殺防止対策を策定し、実施する責務がある」ことを条文化する。(中略)このほか、国と自治体は、自殺防止に関して調査研究を推進し、情報の収集や分析、提供を行うとする。一般国民に対して、教育や広報などを通じて、必要な施策を実施することも明文化する。(毎日新聞 2006年5月14日)
(引用終了)
法の概要そのものにはそれほど間違ったことは書いていないようだが、それ以前の、肝心の対策の方向性そのものが完全にピントが外れていると思うのは私だけだろうか。
警察庁が2003年に発表した原因・動機別・年齢別自殺者数(遺書ありのみ)の資料では、原因の中で一番多いのが健康問題 で37.5%にものぼる。次に経済苦で35.2%。実にこの二つで全体の7割以上を占めている。問題解決の手法としては、大きな原因から片付けるのが定石だ。健康問題に関しては、これはもう医療機関に頑張ってもらうしかない。よって、現時点でつぶすべき優先順位は経済問題ということになる。しかも、経済的な問題は一位の健康問題と大きな部分でリンクしていると思われる。なぜなら“先立つもの”がなければ治る病気も治らないし、退院・快癒後のアフターケアも覚束ないからだ。
では、その庶民が被る経済苦を低減させるようにするにはどうしたらいいか。そんなのは知れたこと、景気を良くすればいいのである。一般ピープルにも、困窮しないだけのカネが回ってくるようにすれば良いのである。
前にも書いたが、マスコミの“景気は回復した!”というスローガンは嘘っぱちである。儲かっているのは一部の輸出関連大企業の幹部のみ。どうすれば本物の景気が回復し、一般庶民が経済苦に陥らずに済むのかは別の機会に書くとして、この“根本的な解決策”を提示せず、やれ“情報の収集や分析、提供を行う”といった、具体的なようでいて実は抽象的な掛け声の羅列に終始する“自殺対策法”の存在理由とは、ズバリ“誰も責任を取りたくない”ってことに尽きるのではないか。
いくら小泉首相が“格差が出るのは仕方がない(=経済苦で悩む者が多くなってもやむを得ない)”と言っても、自殺者が増えている事実は厳然としてある。だから当局側としては何かアクションを起こさなければならない。でも、本気で問題解決を図るとなると“大きな原因から潰すこと”それ自体が理詰めの展開の発端となり、当然そうなると“結果”を求められる。政治家も役人も、そんな面倒な立場はゴメンである。だから“教育や広報などを通じて、必要な施策を実施しよう”みたいな、御為ごかしの対策しか打とうとしないのだ。対策自体がスローガンならば、結果が伴わなくても“おかしいなァ”とトボケていればいい。そして“何か対策をやりました”という事実・実績のみが残る。まるで笑えない笑い話。そんな間にも、経済苦で人生を全うするハメになる者は後を絶たない。
こうなれば政治家も官僚も学者も“自殺するのは本人が悪い! 自殺するならするで、我々の迷惑にならないところで、ひっそりとやってくれ!”と、“本音”をブチあげたらどうなんだ。そうなりゃ誰だって眉ぐらいひそめるだろう(冷笑)。もっともらしいスローガンの連呼など、百害あって一利無しだ。