橋口亮輔監督は“巨匠”の風格を漂わせ始めた。ゲイであることをカミングアウトしている同監督は、今まで同性愛を題材にしたストーリーラインとキャラクター設定でいくつかの秀作をモノにしているが、この映画にはゲイの雰囲気はない。わずかに主人公が男根の大きさに拘ったり興味本位でアナ○セックスを試そうとしてみるあたりに(それも、マジではなくコミカルなタッチで)そのテイストが少し感じられるぐらいである。
ある平凡な夫婦の軌跡を約10年間追い続けた、堂々たる正攻法のドラマだ。子供が出来たのも束の間、赤ん坊は生まれてすぐに死亡してしまい、あげく精神を病んだ妻と夫との長い“戦い”を描く本作、アウトラインだけならばビレ・アウグスト監督「愛の風景」やチャン・ユアン監督「ウォ・アイ・ニー」といった過去の優れた作品群を思い出す。しかし、それらと比べても本作が屹立した個性を獲得しているのは、映画が扱う90年代の世相を傍流としてしっかりと視野に捉えているからだ。
バブルが終わりを告げ、暗鬱な縮小均衡の時代に入ったこの頃は、後ろ向きの社会情勢に呼応したかのように異常な事件が多発する。幼女誘拐殺人をはじめ地下鉄毒ガス事件、小学校児童殺傷事件etc.夫の職業が法廷画家だという設定が出色で、彼は事件の当事者と間近で接触することになる。
さらに巧妙なことに、単純にこれらの事件が夫婦生活に直接的に影響を与えているということではないのだ。嫌な事件が次々と起きて、夫は生臭い法廷の場で絵を描き、それでも夫婦にはパーソナルな生活の場がある。妻はメンタル面での障害を負い、夫は関係を修復しようと体当たりで彼女の心にぶつかる。容赦ない描写の連続で、はっきり言って二人には暗い世相のことなど“知ったことではない”のだ。
しかし、そう感じるのは表面的なことであるのも確かである。非道な事件の連続が、彼らの心の奥底に、微妙な屈託を澱のように溜まらせてゆく。そしてそれは二人の関係性をほんのわずかだが左右する。世相と個人生活との“距離”をここまで突き詰めた作品は、今まで無かったように思う。作者の卓抜な着眼点には感服するしかない。
主演の木村多江とリリー・フランキーの演技は最高だ。冒頭近くのユーモラスなエッチ談義を長回しで破綻無く完遂するのに舌を巻いていると、クライマックスの雨の日の“対決”シーンには、ひょっとして日本映画史上での屈指のパフォーマンスに立ち会っているのではと思わせるほど、ヴォルテージは高い。法廷画家のディテールは抜かりがなく、法曹人とマスコミ、そして犯罪被害者とのコントラストも明快に描かれる。この点、周防正行監督の「それでもボクはやってない」よりも数段上質の仕事ぶりだ。
人間は、大きな障害を前にしてどう振る舞うのか。それをどうやって乗り越えるのか。それを可能にするものは一体何か。観る者にそういった深いテーマに想いを馳せることを喚起する、卓越したパワーを持った映画だ。本年度の日本映画の収穫である。