さすが根岸吉太郎監督作、しかも脚色が田中陽造、このスタッフを揃えただけあって手堅い出来だ。根岸が追求するテーマは、根無し草のように浮遊した人生を歩む者と、地に足が付いた生活を送る者との対比だ。太宰治の小説の映画化となる本作では、主人公の小説家・大谷が前者であり、その妻・佐知が後者であることは論を待たない。
もちろん、ただ“対比させること”だけでは骨太なドラマは生まれないのだ。根岸の場合はハッキリと“地に足が付いた堅実な者”に軍配を上げる。それも上っ面の道徳律などをもって総括はしていない。正攻法に登場人物の内面に迫り、掘り下げた結果である。
大谷は小説が売れても、どこか他人事のよう。恥多き心の中を文章化してしまった嫌悪感、そしてそれは捨て鉢な行動に繋がる。家に原稿料は入れず、日々飲み歩き、果ては居酒屋の金を盗むという暴挙に出る。何とかその場は切り抜けるが、さらに乱行は続き、突如失踪しての心中騒ぎに繋がる。対して佐知は夫が迷惑を掛けた小料理屋の店主夫妻に頼み込んで店で働き出すが、その屈託のない性格と垢抜けた美貌で、客の間では大評判。店は繁盛し、想いを寄せる若造やら昔の恋人である弁護士なども現れる。
大谷の方はそれが自分を助けるための行動とは分かっていても、妻がモテるようになることに嫉妬するのだから世話はない。どんなに奔放で自己愛の強い文士を気取っていても、それは妻の存在とバックアップがあっての話。彼女にゾッコンになっている男を密かに付けるくだりは、妻の手のひらの中で踊らされているダメ男の実相を浮き彫りにして圧巻だ。
大谷に扮する浅野忠信は余裕の貫禄。演技パターンは予想通りなのだが、それでも絵に描いたようなやさぐれ加減の表現には感服する。佐知役の松たか子は、たぶん彼女のベスト演技であろう。優しさと朗らかさ、そして時には開き直ったふてぶてしさをも巧みに観る者に伝える。一面では捉えきれないキャラクターを過不足無くスクリーンに活写させるその力量には舌を巻いた。
しかし、愛人役の広末涼子はつまらない。この映画に欠点があるとすれば、この広末の起用だろう。ここで描かれるのは“舌足らずで喋る、いつもの広末”であって、まったく映画に合っていない。どうしてこんなのに仕事が数多く回ってくるのか、不思議だ。なお、室井滋や伊武雅刀、堤真一といった他の面子は申し分ない。オールセットによる映像デザインや彩度を落とした画調が効果的。太宰の世界への入門編としても適切な映画版で、幅広く奨められる。