(英題:Together)2002年作品。ハリウッドで「キリング・ミー・ソフトリー」を手掛けた後、中国に戻った陳凱歌が撮ったのは、音楽の才能に恵まれた息子とお人よしの父との固い絆を描くという、ベタベタの“お涙頂戴劇”だ。
そもそも田舎町の食堂のコックに過ぎない父親が、どうやって息子にヴァイオリンをマスター出来るだけの環境を整えられたのか大いに疑問だし、失意の音楽家や母親の雰囲気を持つ女性との出会いも御都合主義の極みである。
元より演出力には定評のある陳監督だから、そういった疑問点は“メロドラマのお約束事”として詮索をさせず、観客の紅涙を誘うという作品の意図は十分クリアしている(音楽の使い方も万全だ)。しかし、かつて「黄色い大地」や「さらば、わが愛/覇王別姫」のようなアジア映画史に残る傑作を手掛けた彼が、こんな下世話なネタでお茶を濁している事実は決して愉快なものではない。映画作家としての矜持は地方と都市部との絶望的なまでの貧富の差を描く序盤部分にかろうじて見えるのみ。
予定調和的なセンチメンタリズムが“巨匠の作品”として通用してしまう状況は、たぶん「至福のとき」を撮った頃の張藝謀と通じるものがあるのだろう。今の中国では“こんな映画”しか作れないのかもしれない。
そもそも田舎町の食堂のコックに過ぎない父親が、どうやって息子にヴァイオリンをマスター出来るだけの環境を整えられたのか大いに疑問だし、失意の音楽家や母親の雰囲気を持つ女性との出会いも御都合主義の極みである。
元より演出力には定評のある陳監督だから、そういった疑問点は“メロドラマのお約束事”として詮索をさせず、観客の紅涙を誘うという作品の意図は十分クリアしている(音楽の使い方も万全だ)。しかし、かつて「黄色い大地」や「さらば、わが愛/覇王別姫」のようなアジア映画史に残る傑作を手掛けた彼が、こんな下世話なネタでお茶を濁している事実は決して愉快なものではない。映画作家としての矜持は地方と都市部との絶望的なまでの貧富の差を描く序盤部分にかろうじて見えるのみ。
予定調和的なセンチメンタリズムが“巨匠の作品”として通用してしまう状況は、たぶん「至福のとき」を撮った頃の張藝謀と通じるものがあるのだろう。今の中国では“こんな映画”しか作れないのかもしれない。