1977年のイタリア映画「特別な一日」。
1938年のローマ。ヒトラーがローマにやってくるという記念すべき日、人々は浮かれ
ていた。式典の日、市民のほとんどが広場へ向かった。
主婦のアントニエッタ(ソフィア・ローレン)は早朝から夫と6人の子供たちを起こし、
準備をさせた。皆が出掛け、アパートにひとり残ったアントニエッタ。夫は決して
優しくはなく、満たされないものを感じていた。
家事を再開したアントニエッタは、ペットの九官鳥に餌をやろうとして、うっかり
窓から逃げられてしまう。九官鳥は向かいの階段に止まった。そのすぐそばの部屋に
男性がいるのを確認し、アントニエッタはその部屋を訪ねた。窓から九官鳥をつかまえ
たいと思ったのだ。
部屋の住人ガブリエレ(マルチェロ・マストロヤンニ)の協力もあって無事九官鳥をつか
まえたアントニエッタに、ガブリエレは陽気に話しかけてきた。2人はダンスを踊った。
家事があるからと、コーヒーの誘いを断ってアントニエッタは慌てて家に帰った。
アントニエッタは興奮していた。高ぶった気持ちのままガブリエレの部屋を覗くと、
ガブリエレは誰かに電話をかけていた。
しばらくして、アントニエッタが掃除をしていると、ガブリエレが訪ねてきた。
名優ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの共演作(この2人は何度も共演
している)で、地味だけどとても良かった。タイトル通り、アントニエッタとガブリエレ
の一日だけの交流を描いている。
冒頭、ヒトラーがローマを訪れ、人々が歓喜に沸く様子が、実際の映像で映し出される
のが印象的だ。イタリアでもこんなに支持されてたんだなあ、と思った。
しかもアントニエッタの家はファシスト党である。というか近所の人たちも皆そうなの
だが。
ガブリエレが反ファシストだと知ってアントニエッタが不信感を持つ場面があるが、今
考えれば怖いことだ。正しいのは反ファシストであると人々が理解するのはずっと後の
ことだ。ヒトラーやムッソリーニが大きな支持を得ていたこの時代、ガブリエレのような
権力に抗う人たちがとても生きにくかったであろうことは、悲しいことだ。
あの歴史を繰り返してはならない、と改めて思った。
夫が浮気をしているのを知っているが、どうにもならないアントニエッタ。秘密を抱えた
ガブリエレ。この2人がその日出会ったことは、きっと意味のあるものだったのだと思う。
この映画はカンヌ国際映画祭やアカデミー外国語映画賞などにノミネートされている。
少し生活に疲れた雰囲気を出しているソフィア・ローレンがきれいだった。
ところで本編が始まる前に、「この映画は時代背景や制作者の意図を尊重し、オリジナル
のまま放送します」というようなテロップが出たのだが、最近昔の映画を放送する際に
こういう”お断り”のテロップが出ることが多い。今なら描写されないような不適切な表現
やセリフが使われているからなのだろうが、私は何が良くないのかわからなかった。
フランス映画「月夜の宝石」や日本映画「泥の河」をテレビで観た時もそのようなテロップ
が最初に出たが、「月夜の宝石」は「もしかして不適切なのってあの場面?」と思った場面
があったが(私の考えが合っているかはわからない)、「泥の河」は何がいけないのかわか
らなかった。不適切な場面ってあったっけ?と思った。
私は映画をオリジナルのまま放送するのは当たり前だと思っている。人が作った作品に
勝手に手を加えていいわけがない。映画だけでなく昔の漫画の再販にも「この漫画には
不適切な表現が見られますが、時代背景を考えて云々」と書いてあったりする。
大体不適切って何なのだ。少し神経質過ぎるのではないかと私は思う。差別用語、放送
禁止用語と言われている言葉にしても、元々は差別目的で作られた言葉ではないはずだ。
単に状態や状況を表す言葉として使われていたはずだ。私はこういう”言葉狩り”が嫌い
なのだ。いつ誰が何故差別だと感じるようになったのかもはっきりしない。言葉だけで
なく、映画や漫画などの描写にしても、である。
今は前述のようなテロップが出るからまだいいようなものの、昔は古い映画がテレビで
放送される時、日本映画のセリフや洋画の吹き替えがいきなりプツッと部分的に消され
ていて、イラッとすることがよくあった。何と言ったのかわからないじゃないか。
あれは見ている方にはとても不快だった。
こうした行為を表現の自由の弾圧だと考えるのは、大げさだろうか。
1938年のローマ。ヒトラーがローマにやってくるという記念すべき日、人々は浮かれ
ていた。式典の日、市民のほとんどが広場へ向かった。
主婦のアントニエッタ(ソフィア・ローレン)は早朝から夫と6人の子供たちを起こし、
準備をさせた。皆が出掛け、アパートにひとり残ったアントニエッタ。夫は決して
優しくはなく、満たされないものを感じていた。
家事を再開したアントニエッタは、ペットの九官鳥に餌をやろうとして、うっかり
窓から逃げられてしまう。九官鳥は向かいの階段に止まった。そのすぐそばの部屋に
男性がいるのを確認し、アントニエッタはその部屋を訪ねた。窓から九官鳥をつかまえ
たいと思ったのだ。
部屋の住人ガブリエレ(マルチェロ・マストロヤンニ)の協力もあって無事九官鳥をつか
まえたアントニエッタに、ガブリエレは陽気に話しかけてきた。2人はダンスを踊った。
家事があるからと、コーヒーの誘いを断ってアントニエッタは慌てて家に帰った。
アントニエッタは興奮していた。高ぶった気持ちのままガブリエレの部屋を覗くと、
ガブリエレは誰かに電話をかけていた。
しばらくして、アントニエッタが掃除をしていると、ガブリエレが訪ねてきた。
名優ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの共演作(この2人は何度も共演
している)で、地味だけどとても良かった。タイトル通り、アントニエッタとガブリエレ
の一日だけの交流を描いている。
冒頭、ヒトラーがローマを訪れ、人々が歓喜に沸く様子が、実際の映像で映し出される
のが印象的だ。イタリアでもこんなに支持されてたんだなあ、と思った。
しかもアントニエッタの家はファシスト党である。というか近所の人たちも皆そうなの
だが。
ガブリエレが反ファシストだと知ってアントニエッタが不信感を持つ場面があるが、今
考えれば怖いことだ。正しいのは反ファシストであると人々が理解するのはずっと後の
ことだ。ヒトラーやムッソリーニが大きな支持を得ていたこの時代、ガブリエレのような
権力に抗う人たちがとても生きにくかったであろうことは、悲しいことだ。
あの歴史を繰り返してはならない、と改めて思った。
夫が浮気をしているのを知っているが、どうにもならないアントニエッタ。秘密を抱えた
ガブリエレ。この2人がその日出会ったことは、きっと意味のあるものだったのだと思う。
この映画はカンヌ国際映画祭やアカデミー外国語映画賞などにノミネートされている。
少し生活に疲れた雰囲気を出しているソフィア・ローレンがきれいだった。
ところで本編が始まる前に、「この映画は時代背景や制作者の意図を尊重し、オリジナル
のまま放送します」というようなテロップが出たのだが、最近昔の映画を放送する際に
こういう”お断り”のテロップが出ることが多い。今なら描写されないような不適切な表現
やセリフが使われているからなのだろうが、私は何が良くないのかわからなかった。
フランス映画「月夜の宝石」や日本映画「泥の河」をテレビで観た時もそのようなテロップ
が最初に出たが、「月夜の宝石」は「もしかして不適切なのってあの場面?」と思った場面
があったが(私の考えが合っているかはわからない)、「泥の河」は何がいけないのかわか
らなかった。不適切な場面ってあったっけ?と思った。
私は映画をオリジナルのまま放送するのは当たり前だと思っている。人が作った作品に
勝手に手を加えていいわけがない。映画だけでなく昔の漫画の再販にも「この漫画には
不適切な表現が見られますが、時代背景を考えて云々」と書いてあったりする。
大体不適切って何なのだ。少し神経質過ぎるのではないかと私は思う。差別用語、放送
禁止用語と言われている言葉にしても、元々は差別目的で作られた言葉ではないはずだ。
単に状態や状況を表す言葉として使われていたはずだ。私はこういう”言葉狩り”が嫌い
なのだ。いつ誰が何故差別だと感じるようになったのかもはっきりしない。言葉だけで
なく、映画や漫画などの描写にしても、である。
今は前述のようなテロップが出るからまだいいようなものの、昔は古い映画がテレビで
放送される時、日本映画のセリフや洋画の吹き替えがいきなりプツッと部分的に消され
ていて、イラッとすることがよくあった。何と言ったのかわからないじゃないか。
あれは見ている方にはとても不快だった。
こうした行為を表現の自由の弾圧だと考えるのは、大げさだろうか。