英国の映画批評家、映画史研究家でありドキュメンタリ作家であるマーク・カズンズが2011年に関わった「ストーリー・オブ・フィルム:アン・オデッセイ」は15話完結のテレビ・ドキュメンタリの秀作として知られ、わが国では有料の有線テレビで放映されたようだ。その後の10年間にわたる映画の進化の歴史を3時間に近い長尺で検証したのがこの作品である。
原題は「新しい世代」と銘打っているが、カズンズ監督が引用した古今東西の映画作品を数えると111本が登場する。それが邦題の由来である。
このドキュメンタリのキーワードは「大いなる眠り」と「追跡」である。
「大いなる眠り」というと、私などはついレイモンド・チャンドラーのハードボイルド・ミステリの名作を思い出してしまう。ハワード・ホークスが監督し、ハンフリー・ボガートが名探偵を演じたクラシック名画「三つ数えろ」の原作である。それを意識してかしないかは別として、カズンズ(監督兼ナレーター)は、「映画館では観客は大いなる眠りに入眠するのだ」という。ハリウッドを夢の工場というけれど、われわれ観客は2時間前後の夢を見るということになる。
いっぽう「追跡」とは、映画はカメラが被写体をひたすら追跡することで成立するという意味である。ただここで注意しなければならないのは、カズンズが指摘するように、アクション映画のような急迫の追跡もあれば、時間が退屈なほどゆっくり流れる中での静謐とした池の水面を観察するようなカメラの追跡もあるのだ。とくに最近の映画ではこれが顕著だというカズンズの指摘はおもしろい。私はすぐ「MEMORIA メモリア」を想起した。
さらに、映画はフレームであり、ショットでありカットだとカズンズは喝破する。ショットとカットは微妙に違うのだが、この映画を見ていると、わかりやすくうまく表現・説明していた。監督の「ヨーイ、スタート!」でカメラがまわり、「カット!」でとまる。このひとつながりの撮影されたフィルムをショットというのだが、フィルムが編集機にかけられて切断される場面が映ると、すかさずカズンズが「カットである」という。なるほど、ショットを編集してカットになるというわけだ。
ここ最近の映画の中から引用されるのは欧米で高く評価された作品群だ。冒頭は、「ジョーカー」のホアキン・フェニックスがジョーカーの扮装でコンクリートの階段を踊りながら降りる名場面。そのほか「マッドマックス 怒りのデス・ロード」とか「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」「光りの墓」「万引き家族」「パラサイト 半地下の家族」などが「麦秋」「詩人の血」「貝殻と僧侶」「キートンの大列車追跡」(「キートン将軍」)といった古典的名作とともに引用される。カズンズという人はなかなかよく勉強していると感心した。
なかでも、「万引き家族」の疑似家族が食卓を囲んで夕食を食べる場面の次に、「麦秋」の一家が同じく食卓を囲んで楽しそうに食事をとる場面をつないでみせる。同じ家族でも片や社会の底辺に生きる血のつながりのない家族、片や幸せそうな中流家庭の団らんだが、貧しいながらも前者の団らんもまた心のなごむ場面だとカズンズが解説する。カンヌで上映された際に「国辱映画」だと騒いでいた一部の「文化人」に聞かせてやりたいコメントである。
映画はフィルムからデジタルに進化し、デジタルによって特殊撮影のトリックを精密に効率的に手早くおこなうことができるようになった。次なる10年の歴史が映画をどのように発展させるか、目が離せないというところに、われわれ映画なしでは生きていけない映画狂の夢がある。
ところで、このパンフレットを読んでいて気になることがあった。撮影をジョン・アーチャーとしているが、マーク・カズンズの間違いだろう。信頼できるデータで調べてみるとアーチャーはカメラと照明を担当している人らしい。つまりカメラを実際操作しているのがアーチャーで、カメラの構図やポジションを決める権限をもつのは撮影(シネマトグラフィ)とクレジットされているカズンズである。些末なことだが、重要なことでもある。(健)
原題:The Story of Film:A New Generation
監督・脚本・撮影:マーク・カズンズ
ナレーション:マーク・カズンズ
原題は「新しい世代」と銘打っているが、カズンズ監督が引用した古今東西の映画作品を数えると111本が登場する。それが邦題の由来である。
このドキュメンタリのキーワードは「大いなる眠り」と「追跡」である。
「大いなる眠り」というと、私などはついレイモンド・チャンドラーのハードボイルド・ミステリの名作を思い出してしまう。ハワード・ホークスが監督し、ハンフリー・ボガートが名探偵を演じたクラシック名画「三つ数えろ」の原作である。それを意識してかしないかは別として、カズンズ(監督兼ナレーター)は、「映画館では観客は大いなる眠りに入眠するのだ」という。ハリウッドを夢の工場というけれど、われわれ観客は2時間前後の夢を見るということになる。
いっぽう「追跡」とは、映画はカメラが被写体をひたすら追跡することで成立するという意味である。ただここで注意しなければならないのは、カズンズが指摘するように、アクション映画のような急迫の追跡もあれば、時間が退屈なほどゆっくり流れる中での静謐とした池の水面を観察するようなカメラの追跡もあるのだ。とくに最近の映画ではこれが顕著だというカズンズの指摘はおもしろい。私はすぐ「MEMORIA メモリア」を想起した。
さらに、映画はフレームであり、ショットでありカットだとカズンズは喝破する。ショットとカットは微妙に違うのだが、この映画を見ていると、わかりやすくうまく表現・説明していた。監督の「ヨーイ、スタート!」でカメラがまわり、「カット!」でとまる。このひとつながりの撮影されたフィルムをショットというのだが、フィルムが編集機にかけられて切断される場面が映ると、すかさずカズンズが「カットである」という。なるほど、ショットを編集してカットになるというわけだ。
ここ最近の映画の中から引用されるのは欧米で高く評価された作品群だ。冒頭は、「ジョーカー」のホアキン・フェニックスがジョーカーの扮装でコンクリートの階段を踊りながら降りる名場面。そのほか「マッドマックス 怒りのデス・ロード」とか「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」「光りの墓」「万引き家族」「パラサイト 半地下の家族」などが「麦秋」「詩人の血」「貝殻と僧侶」「キートンの大列車追跡」(「キートン将軍」)といった古典的名作とともに引用される。カズンズという人はなかなかよく勉強していると感心した。
なかでも、「万引き家族」の疑似家族が食卓を囲んで夕食を食べる場面の次に、「麦秋」の一家が同じく食卓を囲んで楽しそうに食事をとる場面をつないでみせる。同じ家族でも片や社会の底辺に生きる血のつながりのない家族、片や幸せそうな中流家庭の団らんだが、貧しいながらも前者の団らんもまた心のなごむ場面だとカズンズが解説する。カンヌで上映された際に「国辱映画」だと騒いでいた一部の「文化人」に聞かせてやりたいコメントである。
映画はフィルムからデジタルに進化し、デジタルによって特殊撮影のトリックを精密に効率的に手早くおこなうことができるようになった。次なる10年の歴史が映画をどのように発展させるか、目が離せないというところに、われわれ映画なしでは生きていけない映画狂の夢がある。
ところで、このパンフレットを読んでいて気になることがあった。撮影をジョン・アーチャーとしているが、マーク・カズンズの間違いだろう。信頼できるデータで調べてみるとアーチャーはカメラと照明を担当している人らしい。つまりカメラを実際操作しているのがアーチャーで、カメラの構図やポジションを決める権限をもつのは撮影(シネマトグラフィ)とクレジットされているカズンズである。些末なことだが、重要なことでもある。(健)
原題:The Story of Film:A New Generation
監督・脚本・撮影:マーク・カズンズ
ナレーション:マーク・カズンズ