深夜、中年の歴史学者のジョージ(リチャード・バートン)とその妻マーサ(エリザベス・テイラー)が大学構内にあるパーティ会場から自宅へ帰った。部屋は散かり放題で洗い物がたまっている。マーサはかなり酔っていて、煙草をよく吸う。命令口調であれこれ指図すると、ジョージは反発しながらも妻の指示に従う。
真夜中にマーサが招待した若い生物学者のニックとその妻ハニーがやって来た。ジョージは何故か息子の話を招待客にするなと言うが、マーサは聞く耳をもたない。マーサの父親はジョージとニックが勤める大学の学長だが、ジョージは万年助教授で昇進の望みがない。マーサは不甲斐ない夫を「ダメ男」と罵り、夫が出版できなかった小説をこきおろし、若いカップルの前で散々悪態をつく。不穏な空気を感じてニックが帰ろうとすると、ジョージはまるで夫婦間のトラブルに巻き込みたいかのように、若い二人に酒を飲ませて引き留める。マーサは若くてハンサムなニックに惹かれていたが、ニックの妻が飲みすぎて酔いつぶれた隙に、ついに2階のベッドに誘う・・・
1962年に初演された舞台劇の映画化で、エリザベス・テイラーが実年齢より20歳近く上のマーサを演じるために体重を増やし、老けメークをして撮影に臨んでいる。卑猥で汚い言葉を使い、露出度の高い服を着て若い男を挑発する。登場人物はほとんど4人だけで、物語の半分以上は自宅の居間で進行する。2時間余の上映時間の多くが夫婦の罵詈雑言で、観客はイライラ感と不快感を募らせる。一体、何のためにこんな夫婦喧嘩の映画を作ったのだろう。観客は戸惑わざるを得ない。一般的な批評は「口汚い罵り合いによって、夫婦の偽善的な愛や性生活を暴き出した作品」というものだが、果たしてそうなのだろうか。
ジョージの姿が見えなくなった時、マーサはニックに、「私に幸せを与えてくれた男が一人いたわ。ジョージよ・・・いつも私に調子を合わせて、気ままなゲームに付き合ってくれた。私はおかげで幸せだった」と神妙につぶやいている。またマーサはジョージに、「大声で怒鳴り、下品に振舞うのは私の役割よ」とも言っている。
マーサとジョージの壮絶な罵り合いは無意識のうちに演じられた芝居ではないのか。マーサは支配的で居丈高な妻を演じ、ジョージは従属的で不甲斐ない夫を演じることによって、マーサのストレスを吐き出させようとしたのではないか。激しい罵り合いも二人のゲームだったのだ。ニックとハニーはさしずめ芝居の観客というところだろうか。ジョージはマーサが自分を罵倒したり、他の男に色目を使うのは我慢できるが、夢と現実が混乱するのだけは認められないと言う。夢と現実の混乱とは何か。
おそらく妄想上の子供のことだと思われる。マーサは想像の世界の中で息子を産み、育て、教育している。ジョージは他人に息子の話をしてはならないとルールを決めていたが、マーサは反発し、明日で16歳になる息子がいると若い二人に言ってしまった。これに危機感を抱いたジョージは、精神状態を心配して入院を勧めるが、マーサが強く拒絶したため、最後の手段として妄想上の息子を事故死させることを決めた。
息子の死を知らされたとき、マーサは激しく動揺するが、ジョージはルールを破ったために殺したと説明する。夜が明け、パーティが終わり、若いカップルは帰った。茫然自失となったマーサの肩に手を置いて、ジョージが「狼なんかこわくない」と歌うと、マーサは「怖いわ」とつぶやく。
原題は劇中で登場人物たちが歌う「狼なんかこわくない」の替え歌である「バージニア・ウルフなんかこわくない」に由来する。狼のWolfとバージニア・ウルフのWoolfを掛けている。この替え歌は何を意味しているのだろう。ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)とは20世紀モダニズム文学を代表する作家で、双極性障害を患い、最期は入水自殺した。夫への遺書には「これ以上あなたの人生を無駄にするわけにはいかない」と記している。
マーサは希死念慮にとらわれているのではないか。「バージニア・ウルフなんかこわくない」というタイトルは、バージニア・ウルフのように精神を病んで自死したくないという意志の表れではないかと思う。ジョージは細心の注意を払って妻に寄り添い、心のケアをしようとしている。息子の話を第三者にするのを禁じたのは、妄想がこれ以上拡大すると、マーサの精神状態が取り返しのつかないところまでいってしまうと危惧したからではないか。ジョージは全力で妻の命を守ろうとしているのだ。この作品は夫婦の偽善的な愛を暴き出した映画なんかではない。深い信頼関係の上に成り立つ、夫婦愛の物語である。(KOICHI)
原題: Who’s Afraid of Virginia Woolf ?
監督:マイク・ニコルズ
脚本:アーネスト・レーマン
撮影:ハスケル・ウェクスラー
出演:エリザベス・テイラー リチャード・バートン ジョージ・シーガル サンディ・デニス
真夜中にマーサが招待した若い生物学者のニックとその妻ハニーがやって来た。ジョージは何故か息子の話を招待客にするなと言うが、マーサは聞く耳をもたない。マーサの父親はジョージとニックが勤める大学の学長だが、ジョージは万年助教授で昇進の望みがない。マーサは不甲斐ない夫を「ダメ男」と罵り、夫が出版できなかった小説をこきおろし、若いカップルの前で散々悪態をつく。不穏な空気を感じてニックが帰ろうとすると、ジョージはまるで夫婦間のトラブルに巻き込みたいかのように、若い二人に酒を飲ませて引き留める。マーサは若くてハンサムなニックに惹かれていたが、ニックの妻が飲みすぎて酔いつぶれた隙に、ついに2階のベッドに誘う・・・
1962年に初演された舞台劇の映画化で、エリザベス・テイラーが実年齢より20歳近く上のマーサを演じるために体重を増やし、老けメークをして撮影に臨んでいる。卑猥で汚い言葉を使い、露出度の高い服を着て若い男を挑発する。登場人物はほとんど4人だけで、物語の半分以上は自宅の居間で進行する。2時間余の上映時間の多くが夫婦の罵詈雑言で、観客はイライラ感と不快感を募らせる。一体、何のためにこんな夫婦喧嘩の映画を作ったのだろう。観客は戸惑わざるを得ない。一般的な批評は「口汚い罵り合いによって、夫婦の偽善的な愛や性生活を暴き出した作品」というものだが、果たしてそうなのだろうか。
ジョージの姿が見えなくなった時、マーサはニックに、「私に幸せを与えてくれた男が一人いたわ。ジョージよ・・・いつも私に調子を合わせて、気ままなゲームに付き合ってくれた。私はおかげで幸せだった」と神妙につぶやいている。またマーサはジョージに、「大声で怒鳴り、下品に振舞うのは私の役割よ」とも言っている。
マーサとジョージの壮絶な罵り合いは無意識のうちに演じられた芝居ではないのか。マーサは支配的で居丈高な妻を演じ、ジョージは従属的で不甲斐ない夫を演じることによって、マーサのストレスを吐き出させようとしたのではないか。激しい罵り合いも二人のゲームだったのだ。ニックとハニーはさしずめ芝居の観客というところだろうか。ジョージはマーサが自分を罵倒したり、他の男に色目を使うのは我慢できるが、夢と現実が混乱するのだけは認められないと言う。夢と現実の混乱とは何か。
おそらく妄想上の子供のことだと思われる。マーサは想像の世界の中で息子を産み、育て、教育している。ジョージは他人に息子の話をしてはならないとルールを決めていたが、マーサは反発し、明日で16歳になる息子がいると若い二人に言ってしまった。これに危機感を抱いたジョージは、精神状態を心配して入院を勧めるが、マーサが強く拒絶したため、最後の手段として妄想上の息子を事故死させることを決めた。
息子の死を知らされたとき、マーサは激しく動揺するが、ジョージはルールを破ったために殺したと説明する。夜が明け、パーティが終わり、若いカップルは帰った。茫然自失となったマーサの肩に手を置いて、ジョージが「狼なんかこわくない」と歌うと、マーサは「怖いわ」とつぶやく。
原題は劇中で登場人物たちが歌う「狼なんかこわくない」の替え歌である「バージニア・ウルフなんかこわくない」に由来する。狼のWolfとバージニア・ウルフのWoolfを掛けている。この替え歌は何を意味しているのだろう。ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)とは20世紀モダニズム文学を代表する作家で、双極性障害を患い、最期は入水自殺した。夫への遺書には「これ以上あなたの人生を無駄にするわけにはいかない」と記している。
マーサは希死念慮にとらわれているのではないか。「バージニア・ウルフなんかこわくない」というタイトルは、バージニア・ウルフのように精神を病んで自死したくないという意志の表れではないかと思う。ジョージは細心の注意を払って妻に寄り添い、心のケアをしようとしている。息子の話を第三者にするのを禁じたのは、妄想がこれ以上拡大すると、マーサの精神状態が取り返しのつかないところまでいってしまうと危惧したからではないか。ジョージは全力で妻の命を守ろうとしているのだ。この作品は夫婦の偽善的な愛を暴き出した映画なんかではない。深い信頼関係の上に成り立つ、夫婦愛の物語である。(KOICHI)
原題: Who’s Afraid of Virginia Woolf ?
監督:マイク・ニコルズ
脚本:アーネスト・レーマン
撮影:ハスケル・ウェクスラー
出演:エリザベス・テイラー リチャード・バートン ジョージ・シーガル サンディ・デニス