1990年代初頭からの約四半世紀、それぞれの階級で印象に残った選手を挙げていっております。記載上のルールは各選手、登場するのは1階級のみ。また、選んだ選手がその階級の実力№1とは限りません。
今回から新しい階級ライト級の話になります。個人的な印象としてライト級を含めたそれ以上の階級となると、日本人選手には遠い存在である重たい階級というものがあります。
名前はライト(軽い)ながらも重たい階級の先陣を切るのが元WBC王者のミゲル アンヘル ゴンザレス(メキシコ)。日本では世界王座獲得前の1990年末から翌91年の夏にかけて5度無冠戦を行っています。来日戦績は5戦全勝全KO勝利。4試合を東京で、残り一試合を福岡で行っています。協栄ジムの招聘選手として来日し、リングネームは「東京 三太」。名前のセンスには賛否両論でしょうが、自分がボクシングに興味を持ち始めたちょうど同じ時期に雑誌(ボクシングマガジン)に頻繁に載っていた名前だけに、非常に懐かしさを感じさせる名前です。ここでは親しみをこめて「三太」で掲載させていただきます。
(ミゲル アンヘル「東京 三太」ゴンザレス)
日本でもファンが多かったために、ボクシングマガジンでも贔屓目に記載されていた三太。初の王座となるWBCインターナショナル王座を獲得した時も、カラーページとまでは行きませんでしたが、その試合に関する記事が白黒ながらも1ページを占めていました。しかし三太のキャリアを振り返ってみるとどうでしょうか。特に日本での期待が大きかったからでしょうか、世界王座を獲得する前の期待に応えられなかった、というのが正直な印象です。もし、三太が「三太」として日本のリングに立つことがなく、「ゴンザレス」のみでそのキャリアを終えていたら、特に印象の残らない世界王者の一人として終わっていたでしょう。
三太の通算戦績は51勝(40KO)5敗(2KO負け)1引き分け。KO率は70%。5つの敗戦と1つのドローはすべてライト級卒業後に喫しています。1989年1月にプロデビューを果たした三太。メキシコ国内のリングで順当に勝ち星を伸ばして行きます。デビュー14戦目に初の国外試合(米国・ニューメキシコ州)を経験した後に来日。上記の通りに5つの白星を僅か8ヶ月の間に積み重ねました。
(三太が行った日本で行った試合の1つ)
1992年が飛躍の年となった三太。3月にインターナショナル王座を獲得し、8月に当時空位だったWBC王座の決定戦へと駒を進めます。空位だったこの王座は、当時、いやボクシング至上屈指のテクニシャンといわれたパーネル ウィテカー(米)が保持していた3団体統一ライト級王座を返上したために空席になった世界王座の1つ。その席をコロンビアの強打者ウィルフレド ロチャと三太が争う運びとなりました。
注目度の高かった三太。それに加えてウィテカーと比べると明らかに実力が劣るロチャとの対戦は、試合前から三太の圧勝が予想されていました。しかしその予想と期待を裏切るようかのように三太にとって非常に厳しい初の世界戦となってしまいました。最終的には9回で試合を終わらせた三太ですが、2回にはダウンを喫しその精悍な顔からは鼻血を流す始末。晴れてウィテカーの後釜の地位に就いた三太ですが、その評価はがた落ちした、といって過言ではなかったでしょうね。
ロチャ戦で厳しい勝利を収めた三太には、さらなる過酷な試合が続きます。その年の師走に行われた指名挑戦者ダリル タイソン(米)との初防衛戦ではワンサイドの判定勝利。しかしその面白みに欠ける試合展開に対し非難が殺到。翌年3月に行われた元WBCバンタム級王者ビクトル ラバナレス(メキシコ)の実兄ブルーノとの無冠戦でも大苦戦の判定勝利。続くエクトール ロペス(メキシコ)、デビット サンプル(米)戦でも判定防衛と消化不良のままファンの期待に応える事が出来ずじまい。しかしサンプル戦では、サウスポー対策の「サンプル(お手本)」のようなボクシングも見せ、日本のある雑誌を賑わせました(ある日本王者のコメントからのようです)。
三太がその才能を開花させたのは、1993年11月に行われた4度目の防衛戦、対ロチャとの再戦からではないでしょうか。その一戦では約1年数ヶ月前に行われた初戦とは違い、自信満々のパフォーマンスを見せた三太。これが王者の自身、風格というんでしょうね。フィニッシュまでに第一戦より6分ほど長く時間を費やしましたが、内容の方は三太の一方的なもの。しかし三太の勢いは、ライバルを返り討ちにしたのみでは止まりませんでした。
翌1994年3月にはそのキャリアで唯一の欧州遠征を行い、フランスのリングに登場した三太。後にWBCとWBA王座を獲得する事になったジャン バプティスト メンディ(仏)を相手にワンサイドの5回TKO勝利を収めます。その5ヵ月後には当時無敗で、これまた後に世界のベルトを腰に巻くリーベンダー ジョンソン(米)に圧勝。白星と防衛回数を伸ばしていきます。ジョンソンは三太に挑戦する前に、当時世界王者最有力候補だったシャンバ ミッチェル(米)を破っており、その勢いから「三太危うし」の声も聞かれていました。しかしそんな不安も一蹴するほど当時の三太は乗りまくっていました。
ちなみにミッチェルはスーパーライト級に転級して2度、世界王座を獲得。ジョンソンは三太の協栄ジムを通しての元同僚オルズベック ナザロフ(キルギス)の持つWBA王座に挑戦しますが、ここでもTKO負け。しかしメンディはそのナザロフからWBA王座を奪っています。
順調に白星を重ね、評価もグングン上がっていった三太ですが、節目となる10度目の防衛戦で思わぬ落とし穴が待ち受けていました。マイク タイソン(米)のリング復帰戦に組み込まれたその試合で三太が迎えた挑戦者は無名のラマー マーフィー(米)。両者のそれまでの実績を比較してみると、三太の圧勝はもちろんの事苦戦すら許されない一戦でした。しかし現実は三太の大苦戦。2対0の判定で勝利を収めたものの、だれもがその判定には首を傾げていました。
マーフィー戦を最後にライト級を卒業しスーパーライト級に転向した三太。既に述べましたが、彼のキャリアには5つの敗戦と1つの引き分けがあります。そのすべての試合はライト級卒業後に起こっています。
(コンスタンチン チューの強打の前に完敗)
結局はライト級以外で世界王座に復帰できなかった三太。スーパーライト級では3度WBC王座に挑戦し2敗(1KO負け)1引き分け。ウェルター級では2度世界王座に挑みますが、そこでも2敗(1KO負け)を喫してしまいました。まあ、上の階級で対戦した相手が同胞の先輩フリオ セサール チャべス、三太との対戦時にその全盛期を迎えていたオスカー デラホーヤ(米)とコンスタンチン チュー(豪)。そして三太より体格が大きく、スピードでも上回っていたコーリー スピンクス(米)とルイス コラーゾ(米)だったから仕方がないと言えば仕方ないでしょうね。
(先輩チャベスとは痛み分け)
三太が獲得した王座(獲得した順):
WBCインターナショナル・ライト級:1992年3月16日獲得(防衛回数0)
WBCライト級:1992年8月24日(10)
WBC中米カリブ・スーパーウェルター級:2006年9月2日(1)
ライト級を卒業してから10年間、2006年10月まで戦い続けた三太。最終的にスーパーウェルター級まで体重が増大しましたが、最後はWBCの地域王座を獲得し、初防衛に成功後引退。地味ながらもしっかりと有終の美を飾るあたりが流石といったところではないでしょうか。
(自身最後のベルト、中米カリブのベルトを掲げる三太。引退試合の時の写真でしょうかね?)
ライト級での実績を考えると、もっと評価されていい選手だったかもしれません。しかしその階級後の低迷度が大きすぎたため、影の薄い元世界王者の地位に甘んじてしまっているのでしょうね。
1970年生まれの三太。最近噂に上ったロイ ジョーンズ(米)より1歳若いことになります。引退後、どのような生活を送っているのでしょうかね。現役時代はリング外での素行の悪さは聞かれなかったので、多分のんびりに現役後の生活を送っていると思われます。