看板が設置されました

2010-03-03 12:12:55 | 議会活動
3日は午前中所用で市役所に出かけました。正面玄関から入ったところ真新しい大看板が目につきました。「緊急不況雇用対策相談窓口」と書かれていました。

私が2月16日のブログで、「前は『緊急経済雇用対策窓口』の大看板があったのですが、いつの間にか撤去されていました」と書いたからでもないでしょうが、市民の一番目につくところに設置されたことは良かったと思います。市も真剣に取り組んでいる様子がわかります。

しかし、看板の大文字の横に「相談窓口は商工観光課(北御牧庁舎)で取り扱っております」と書いてあり、続けて「申し訳ございませんが、北御牧庁舎へお越しいただくか、電話×××までご連絡ください」と記載されていました。

市民の皆さんにご不便をかけていると思ったのなら、なぜ窓口だけでも本庁舎でできるよう努力しないのでしょうか。せっかく本庁舎窓口まで来てもムダ足になってしまうのです。

巨峰は地域を変えた(その1)

2010-03-03 07:00:00 | 雑感
これまでにも私はブログにぶどうのことを書いてきましたが、私たちの地域になぜぶどうが定着したかご紹介します。

私がまだ小学校の低学年の頃は畑では桑を栽培し養蚕が盛んに行われていました。「蚕」(かいこ)のことを私たちは「お蚕さん」と呼んでいました。わが家には蚕室という養蚕専門の納屋がありましたが、家によっては住居の畳を上げ、そこで蚕を飼っているうちもありました。人よりも蚕が大切にされました。わが家は兼業農家で父が教員をしていましたが、まわりは養蚕農家がほとんどでした。

しかし時代の流れの中で養蚕業は衰退し新しい商品作物が求められていました。この地域でぶどう栽培が始まったのは昭和36年からです。きっかけは中屋敷が長野県の農業近代化モデル事業に認定されたことです。

それまで桑や麦を作っていた道も無いような小さな畑を交換分合し、区画整理してぶどう団地を造成しました。一口に交換といっても先祖から受け継いできた畑を手放し、一箇所にまとめるのは大変だったようです。私はまだ小さかったので記憶にありませんが、毎日のように公民館に集まり相談したそうです。

私が小学校の高学年頃には話もまとまり、桑を掘り起こし、道路を開け、ぶどう棚を張りぶどう団地が造成されました。父や母がつるはしやシャベルで「とっこ」(桑の根)を苦労して掘り起こしていたことを思い出します。
 
 

私が中学校の時、軽井沢に静養に来られていた皇太子殿下がぶどう団地を視察されることになりました。私たち全校生徒が道路に並べさせられ、皇太子殿下をお迎えすることになりました。黒い車が何台も通り過ぎ、どこに皇太子が乗っていたのかわからないまま、歓迎行事は終わりました。

下はその時の写真です。真ん中で白いスーツに帽子をかぶり、さっそうと歩いているのが皇太子殿下。今の天皇陛下です。一番右の方がその時の東部町長、百瀬さんです。

それまではぶどう団地の道路はほこりだらけの土むき出しの道でしたが、視察に先立って細かい砂利が敷かれきれいになりました。砂利といえば大きな石ころばかりだったので細かい砂利は目新しく、もし天皇陛下がやってくれば舗装してくれるのかななどと悪ガキどもと話したことを覚えています。

とにかくこのぶどう団地ができたことで中屋敷の人々の暮らしは一変しました。
 

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