私は平成20年11月の市会議員選挙で議員に当選し現在1期目です。市会議員になる前は30数年にわたり金融マンとして地方銀行である八十二銀行に勤務し、朝から夜遅くまで営業活動を行っていました。ですから地域社会とはほとんど係わることもなく、政治の世界とは無縁の生活を送っていました。
そんな私の大きな転換点となったのは1995年の2月のことでした。八十二銀行のシンクタンクである長野経済研究所に出向することになりました。私はここで調査研究のノウハウ、経営相談のスキル、コンサルタントとしての経験を積みました。一方、研究所勤務する中で時間的余裕も生まれました。そんな中地域にかかわることも多くなり、PTAや公民館活動を行ったり、そして区の役員を仰せつかったりしました。銀行の現場にいたのではかかわることのできなかった方々とのつながりもできました。
そして忘れることができないのは1998年から私たちの滋野地区で取り組まれた中部電力高圧送電線反対運動でした。当時中部電力は長野オリンピックをひかえ、高速道路・新幹線が開通することにより電力需要が増大することを見込み、中信と北信を結ぶ50万ボルトの超高圧送電線網を計画。この送電線が私たちの滋野地区を縦断することになりました。これに対し送電線からの電磁波による健康被害を心配するお母さん方を中心に、反対の声があがりました。その後反対運動は滋野全地域に広がり数年間にわたって粘り強く続けられました、
私はちょうどこの時、区の三役であったため運動にもかかわるようになりました。そこで初めて議会への陳情や請願を経験し、お母さん方とともに議会傍聴も行いました。これが行政とのかかわりの最初でした。ちょうど長野県においても田中知事が誕生した時でもあり、住民が自分の要求を自分の言葉で伝えることがごく普通に行われていました。住民運動においても高揚期であったと思います。
そんな中、私は仕事の関係でいまの東御市長である花岡俊夫さんにお会いしました。当時はお菓子屋さんの社長さんでした。その経営手腕、時代を見る目、まわりの人をまとめるリーダーシップは素晴らしいものがありました。そして3度目の挑戦で市長に当選しました。これまでのハコモノ行政からの転換が実現すると喜んだものでした。
しかしその後の議会との関係が思わしくなく、花岡さんの思いが実現していないということをお聞きするようになりました。そんな中、私たちの地域から出ていた議員さんが引退するという話がありました。その方は行政を厳しい目で見ている方で辛口の批判を行っており、私は次の選挙に出てみないかと声をかけられました。
私自身60才を前にして、これからどのように生きていったらいいのか悩んでいる時でもありました。コンサルタントとしてお世話になっている会社も数社あり、ここでやめたらご迷惑をかけることになるという思いもありましたし、果たして選挙で勝てるのかという不安もありました。一方でこれまでお世話になってきた地域へ貢献したいという気持ちや、私を後押ししてくださる友人や地域の皆さんへの感謝の気持ちもありました。
そんな中、選挙の3ヶ月前に決断し、それからは選挙戦一色で取り組んできました。幸い地域の皆様のお力で何とか当選させていただくことができました。
いまにして思うと、これまでのすべてのことを集大成したことが、いまの市会議員ということに結びついたのだと感じています。銀行の勤務、研究所の経験、住民運動の取り組み、花岡さんとの出会い、引退した先輩議員さん、そして地域の仲間たち、どれひとつ欠けてもいまの自分はなかったのだと思います。そうした意味ですべての皆さんに感謝したいと思っています。
そんな私の大きな転換点となったのは1995年の2月のことでした。八十二銀行のシンクタンクである長野経済研究所に出向することになりました。私はここで調査研究のノウハウ、経営相談のスキル、コンサルタントとしての経験を積みました。一方、研究所勤務する中で時間的余裕も生まれました。そんな中地域にかかわることも多くなり、PTAや公民館活動を行ったり、そして区の役員を仰せつかったりしました。銀行の現場にいたのではかかわることのできなかった方々とのつながりもできました。
そして忘れることができないのは1998年から私たちの滋野地区で取り組まれた中部電力高圧送電線反対運動でした。当時中部電力は長野オリンピックをひかえ、高速道路・新幹線が開通することにより電力需要が増大することを見込み、中信と北信を結ぶ50万ボルトの超高圧送電線網を計画。この送電線が私たちの滋野地区を縦断することになりました。これに対し送電線からの電磁波による健康被害を心配するお母さん方を中心に、反対の声があがりました。その後反対運動は滋野全地域に広がり数年間にわたって粘り強く続けられました、
私はちょうどこの時、区の三役であったため運動にもかかわるようになりました。そこで初めて議会への陳情や請願を経験し、お母さん方とともに議会傍聴も行いました。これが行政とのかかわりの最初でした。ちょうど長野県においても田中知事が誕生した時でもあり、住民が自分の要求を自分の言葉で伝えることがごく普通に行われていました。住民運動においても高揚期であったと思います。
そんな中、私は仕事の関係でいまの東御市長である花岡俊夫さんにお会いしました。当時はお菓子屋さんの社長さんでした。その経営手腕、時代を見る目、まわりの人をまとめるリーダーシップは素晴らしいものがありました。そして3度目の挑戦で市長に当選しました。これまでのハコモノ行政からの転換が実現すると喜んだものでした。
しかしその後の議会との関係が思わしくなく、花岡さんの思いが実現していないということをお聞きするようになりました。そんな中、私たちの地域から出ていた議員さんが引退するという話がありました。その方は行政を厳しい目で見ている方で辛口の批判を行っており、私は次の選挙に出てみないかと声をかけられました。
私自身60才を前にして、これからどのように生きていったらいいのか悩んでいる時でもありました。コンサルタントとしてお世話になっている会社も数社あり、ここでやめたらご迷惑をかけることになるという思いもありましたし、果たして選挙で勝てるのかという不安もありました。一方でこれまでお世話になってきた地域へ貢献したいという気持ちや、私を後押ししてくださる友人や地域の皆さんへの感謝の気持ちもありました。
そんな中、選挙の3ヶ月前に決断し、それからは選挙戦一色で取り組んできました。幸い地域の皆様のお力で何とか当選させていただくことができました。
いまにして思うと、これまでのすべてのことを集大成したことが、いまの市会議員ということに結びついたのだと感じています。銀行の勤務、研究所の経験、住民運動の取り組み、花岡さんとの出会い、引退した先輩議員さん、そして地域の仲間たち、どれひとつ欠けてもいまの自分はなかったのだと思います。そうした意味ですべての皆さんに感謝したいと思っています。