少し前の話題だが、大谷翔平の活躍を元メジャーリーガーの解説者が「アジア訛り」のアクセントで喋ったことが問題視された。
これだけ聞くと「差別」という言葉に反応して「批判は当然」と思うのだが、冷静に考えるとちょっと待てよと思ってしまう。
そういうことって普通にあるんじゃないかと。
例えば中国人を真似て「〇〇あるよ」とか言ってみたり。
欧米人を真似たアクセントとかも普通にやってるよね。
これってどうなのか?
今の世の中「差別」ということに敏感過ぎて生き辛い。
悪意もなく何気無く発した言葉が差別と指摘されたり。
今朝も日テレの「スッキリ」で、問題となったアイヌ民族への差別語がなぜ放送されたのか検証していた。
日テレとしてはBPOからも指摘されやらざるを得なかったのだろうが、あの件も厳しすぎると思っている。
今の日本人でどれだけの人がアイヌ民族のことを知っているだろうか。
知らないよね。
もちろんボクも知らない。
アイヌ民族が「あっ、犬」と言って差別されてたことなども全く知らない。
そもそも「犬」と喩えることが、即「差別」ということにも鈍感だ。
ヤクザが「警察の犬め!」と内通者に吐くセリフを思い出すくらい。
「豚」と言われるよりはマシだろうし。
なんていうことをとやかく言うことも公共の場では許されない。
息苦しい。
差別の本質は「意識」の有無だと思うが、どうもそうではないらしい。
無知が罪と言うのは随分狭量な社会だとも思う。
パラリンピックで話題となった片翼の少女。
きっと指摘する人が居るだろうなと思ったら、やっぱりいた。
江川紹子が「片翼」に噛みついている。
片腕とか片目とかは気をつけて使わないとどこから批判の矢が飛んでくるか分からない。
「片手落ち」なんて完全に差別語として放送禁止されている。
男とか女とかも、ついつい気を使ってしまう。
世阿弥は万事うまく行っている時を「男時(おどき)」その逆を「女時(めどき)」なんて言っているが、今ならとんでもないだろうな。
良かったね室町時代で。
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