ボクが東京で同窓生たちと旧交を温めていたころ、渋谷は大変なことになっていたんですね。
和製ハロウィンのバカ騒ぎ。
イカれた格好で繰り広げる狼藉の数々。
思いっきり肌を露出しながら痴漢されたと騒ぐお門違いの女たち。
君子ならずとも危うきには近づかないのが分別ある大人の心構え。
危険地帯に乗り込む以上は「自己責任」というのは、つい最近聞いたばかりの話にも通じる。
安田純平氏に対する「自己責任論」は外野でなお一層燃え盛っている。
芸能人がああ言った、スポーツ選手がこう言った。
まあ誰がどう思おうと人それぞれ。
そんなことで世の中は何も変わらない。
話題の危険地帯にフリージャーナリストが行きたがるのは、それが金になるから。
世の中には、もっと伝えるべきことはたくさんあるはずなのに、金にならない話には誰も飛びつかない。
そこが所謂「フリージャーナリスト」の胡散臭いところ。
「ニーズがあるから」と言いたいだろうが、ニーズを作るのもジャーナリストの仕事。
これまでメディアが伝えていない不幸な事実に光を当てて世に知らしめるという尊き仕事が疎かになっている。
金にならないからね。
だから、そうしたフリージャーナリストを英雄視する風潮は好きではない。
金になる危険地帯に群がるのは、ハロウィンの渋谷に集まるコスプレイヤーに似たミーハーさがある。
もちろん、そういうジャーナリストの必要性も認めているが。
子供の頃読んだトルストイの物語。
「どこともわからないところへ行って、なんともわからないものを持ってこい」
子供心に、それって一体何なんだと頭悩ませた記憶がある。
それこそジャーナリズムの神髄のような気もしている。