日本語で考え、日本語で話す人が日本列島人である。方言というのはそのグラデーションだと思う。
日本人のこころとは? 日本人の本質とは? とよく新書判にありそうな題であるが、僕らの意識を規定するのはぼくらの言語である、ぼくのなかには、おくも、俺も私も、自分も存在するし、あなた、おまえ、君、貴様も存在する。いたって複雑である。
ぼくは尾鷲の寺町の路地で生まれ、路地のこどもたちと遊び、やがてあるいて五分ほどのところにある尾鷲幼稚園に行った。父は若い頃沖縄へ徴用された。ぼくが中学を卒業する時分まで遠洋マグロ船に乗っていた。母は夫のいない間は暇そうで、夏休みや冬休みとなると
清洲や稲沢、大阪の河内長野に長い間出かけていた。ぼくには三歳上の努力する成績のよい姉がいた。
父や母の周辺のことを書き出せば自分の核の部分が大きくなってしまいそうなので、自分の住まいと家族だけにおさめておく。いわば両親の遺伝子をのぞけばぼくの原形は寺町、路地、留守がちな父および無口な性格、自由そうな母の性格、成績のよい姉からぼくは構成されるように思う。
だからいくつの日本人論があっても、所詮、日本語、しかもその亜流である尾鷲弁、寺町となり、ぼくの場合、農耕にも届かねば、天皇にも、武士にも届かない。
今のぼくがここに存在するということは親がおり、その親にまたそれぞれの親がおり、それぞれの親にまたそれぞれの親がいる、というふうに遡っていけばどこまでも遡っていけるのである。
中国の大陸には様々な人種が集まっていた。長く日本列島には縄文人が暮らしていた。紀元前1000年以降くらいから、朝鮮半島を経由して弥生人が入ってきた。縄文人と弥生人がいつのまにか交じりあって現在の日本列島人になったのかと思いきや、朝鮮半島からの流入は延々と続き、縄文人と交わらないケースもあった。200年頃の話である。
朝鮮半島からくる人々もバイカル湖ルート、モンゴルルート、東南アジアルートがあり、縄文時代のように海路で列島に到達した人も続いたことだろう。
このころの歴史の中にもぼくの祖先たちは必ず、子を産むまでは生きていたはずで、ぼくがここに存在するのが証拠となる。
いずれかの時期、ぼくの先祖はどんなルートをたどって、どんな人と一緒になってということが遺伝子解析でわかるようになるかもしれない。
しかしながら日本人の本質などと考えてみると、血統から辿ってもしかたなく(どこかで異人種、異民族と交わっているのであるから)、日本語で物事を考える人としかいいようがなくなる。
日本人のこころとは? 日本人の本質とは? とよく新書判にありそうな題であるが、僕らの意識を規定するのはぼくらの言語である、ぼくのなかには、おくも、俺も私も、自分も存在するし、あなた、おまえ、君、貴様も存在する。いたって複雑である。
ぼくは尾鷲の寺町の路地で生まれ、路地のこどもたちと遊び、やがてあるいて五分ほどのところにある尾鷲幼稚園に行った。父は若い頃沖縄へ徴用された。ぼくが中学を卒業する時分まで遠洋マグロ船に乗っていた。母は夫のいない間は暇そうで、夏休みや冬休みとなると
清洲や稲沢、大阪の河内長野に長い間出かけていた。ぼくには三歳上の努力する成績のよい姉がいた。
父や母の周辺のことを書き出せば自分の核の部分が大きくなってしまいそうなので、自分の住まいと家族だけにおさめておく。いわば両親の遺伝子をのぞけばぼくの原形は寺町、路地、留守がちな父および無口な性格、自由そうな母の性格、成績のよい姉からぼくは構成されるように思う。
だからいくつの日本人論があっても、所詮、日本語、しかもその亜流である尾鷲弁、寺町となり、ぼくの場合、農耕にも届かねば、天皇にも、武士にも届かない。
今のぼくがここに存在するということは親がおり、その親にまたそれぞれの親がおり、それぞれの親にまたそれぞれの親がいる、というふうに遡っていけばどこまでも遡っていけるのである。
中国の大陸には様々な人種が集まっていた。長く日本列島には縄文人が暮らしていた。紀元前1000年以降くらいから、朝鮮半島を経由して弥生人が入ってきた。縄文人と弥生人がいつのまにか交じりあって現在の日本列島人になったのかと思いきや、朝鮮半島からの流入は延々と続き、縄文人と交わらないケースもあった。200年頃の話である。
朝鮮半島からくる人々もバイカル湖ルート、モンゴルルート、東南アジアルートがあり、縄文時代のように海路で列島に到達した人も続いたことだろう。
このころの歴史の中にもぼくの祖先たちは必ず、子を産むまでは生きていたはずで、ぼくがここに存在するのが証拠となる。
いずれかの時期、ぼくの先祖はどんなルートをたどって、どんな人と一緒になってということが遺伝子解析でわかるようになるかもしれない。
しかしながら日本人の本質などと考えてみると、血統から辿ってもしかたなく(どこかで異人種、異民族と交わっているのであるから)、日本語で物事を考える人としかいいようがなくなる。