現在1999年から2003年まで書いた「僕のバリ日記」を校正している。ひとつひとつ読んでいると同じ体験をまたしているようで奇妙である。忘れているものもある。熱帯での日々は疲れるものだった。日本人のように速く歩くのはぼくに言わせれば御法度である。だいたい日本にいるときの60%くらいの少ない、遅い動きをする。仕事もそうで、イライラしてはいけない。注文しても時間はかかる。
バリ島にいるときは結構好奇心をもって暮らしていた。植物、果物、絵画、舞踊、音楽、宗教、生活感、村落共同体、バリアン、プダンダ、いろいろなことを知った。そして考えた。
1999年に尾鷲のある病院で「慢性膵炎」と診断され、それが伊勢の市民病院で「誤診」とわかるまで三年かかった。「慢性膵炎」というと治らない難病で食べる物から脂気をなくさなければならなかった。しかしおかげで体重は減り、学生時代のようになった。胃潰瘍だった。これはすぐに治った。優れた薬があるのだ。
1999年から20年経っている。2019年。バリ島での仕事は終えてから四年になる。こんなことがあったことを思い出して懐かしさでいっぱいになった。昨日檀ふみが、一年分の日記を書き移した話をしていた。二度経験できる、というのがよくわかる気がした。
2000年12月25日 バカス
「バワの家に行こう」ということになった。バワはデンパサールに住んでいるから、てっきり車で二十分のところだと思っていたのだが、バワの家という限りは、バワの実家のことであることが行く前にわかった。クルンクン県にある。クタから車で北へ約一時間半。ギャニャールを通り、スマラプラから約5キロ、バカスという村である。
たいへんな田舎であった。バカスの村の入り口に割れ門があり、そこからバカスの村なのだが、あたりは棚田とジャングルで割れ門から2~3分走ると人家が見え始める。大きな家ばかりである。
仕事がないためバワやさらに若い世代はこの村を離れ、デンパサールやクタ、サヌールに出かけ、そこで仕事を見つける。バワは、このバカスの実家の跡継ぎであり、バワが実家へ帰るとなると、そこは本家なものだから、分家の親戚筋が集まってくるそうだ。
三百坪以上はあるだろう。そのうち百坪程は家の寺院になっており、三棟の一階建ての建物がある。各建物の扉はジャンクフルーツの木でできており、鳥や花の木彫りがほどこされている。宮殿をずっと小さくしたものだが、そこにバワのお父さんが一人で住んでいるのである。弟がすぐ近くにいるし、一人で住んでいるというより、親戚一同、近所の人一同と住んでいると言った方がよいかも知れない。
「お幾つですか?」と聞くと「八十三歳だ」と言う。「バリ暦でしょう。西暦では、お幾つですか」と聞くと七十三歳だという。笑わない人だった。
バワの家から山側を眺めると、高い木にドリアンが実をつけている。ジャックフルーツ、ランブータン、パパイヤが見える。静かである。鶏の鳴き声が静けさを破る。
僕は、十五分位で、挨拶をして帰るつもりだったが、とんでもない話で、バリのおもてなしをこれからしっかり受けることになった。今日は特別な客が来るということで、朝早くから、食事の用意するために、はるばるヌサドゥアからバワの妹達もお手伝いに来、従兄や近所の人たちも準備に集まっていたのだった。一同集まって食べる形式をムギブンと呼び、これがバリのナシチャンプルだという料理がでてきた。一つは、ジャックフルーツと豚の皮が主になったもの、クローブの葉とインゲン豆と豚の皮が主になったもの、若いバナナの木を主としたもの、アヒルのアヤンバンガンブンブバリ、サテなどなど。たいへんなご馳走である。これがまた美味しく、バリの米も美味しく、うまい、うまいと食べたのだった。これを作る為にみんな集まってくれたのである。
食事の間、いろいろと話をし、その後、村を少し歩いた。ヌサ・インダーという赤い舌のような花の名を知り、道端の植物をあれこれと見た。五百メートル先がラフティングの出発地点である。そこがこの村の端である。この村の人口は三百人。一つの村に五つのバンジャール(自治会)がある。
闘鶏をやっているというので見に行った。男たちは、軍鶏の品定めをして、金を賭けている。この闘鶏は村の寺院の改築費用捻出の為に行われているのだそうだ。
道端にパイナップルが生えている。ランブータンが生えている。三百人くらい生きてゆくのに十分な食糧がこの村にはあるように見える。僕は海育ちなので、このようななり物は珍しい。バリ島ではやっぱり魚は食べられないなと思う。魚を運ぶには気温が高すぎ、遠すぎる。
「仕事をリタイヤしたら、ここに戻るのかい?」とバワに聞くと、「そうだ」と答える。
村を遠く離れた者も、バリでは実家の村に所属するため村のセレモニーの時は必ず村に戻ることになる。デンパサールの村組織には属さないのだ。村をいつまでも宗教的に行政的に支える仕組みになっている。
甘いバリコーヒーをいただいて帰途に着く。クリスマスである。夜、グランブルーでは、スイスのグループ、オーストラリアのグループ、日本人達のグループで賑わっていた。
シェフのバワは大忙しだった。
バリ島にいるときは結構好奇心をもって暮らしていた。植物、果物、絵画、舞踊、音楽、宗教、生活感、村落共同体、バリアン、プダンダ、いろいろなことを知った。そして考えた。
1999年に尾鷲のある病院で「慢性膵炎」と診断され、それが伊勢の市民病院で「誤診」とわかるまで三年かかった。「慢性膵炎」というと治らない難病で食べる物から脂気をなくさなければならなかった。しかしおかげで体重は減り、学生時代のようになった。胃潰瘍だった。これはすぐに治った。優れた薬があるのだ。
1999年から20年経っている。2019年。バリ島での仕事は終えてから四年になる。こんなことがあったことを思い出して懐かしさでいっぱいになった。昨日檀ふみが、一年分の日記を書き移した話をしていた。二度経験できる、というのがよくわかる気がした。
2000年12月25日 バカス
「バワの家に行こう」ということになった。バワはデンパサールに住んでいるから、てっきり車で二十分のところだと思っていたのだが、バワの家という限りは、バワの実家のことであることが行く前にわかった。クルンクン県にある。クタから車で北へ約一時間半。ギャニャールを通り、スマラプラから約5キロ、バカスという村である。
たいへんな田舎であった。バカスの村の入り口に割れ門があり、そこからバカスの村なのだが、あたりは棚田とジャングルで割れ門から2~3分走ると人家が見え始める。大きな家ばかりである。
仕事がないためバワやさらに若い世代はこの村を離れ、デンパサールやクタ、サヌールに出かけ、そこで仕事を見つける。バワは、このバカスの実家の跡継ぎであり、バワが実家へ帰るとなると、そこは本家なものだから、分家の親戚筋が集まってくるそうだ。
三百坪以上はあるだろう。そのうち百坪程は家の寺院になっており、三棟の一階建ての建物がある。各建物の扉はジャンクフルーツの木でできており、鳥や花の木彫りがほどこされている。宮殿をずっと小さくしたものだが、そこにバワのお父さんが一人で住んでいるのである。弟がすぐ近くにいるし、一人で住んでいるというより、親戚一同、近所の人一同と住んでいると言った方がよいかも知れない。
「お幾つですか?」と聞くと「八十三歳だ」と言う。「バリ暦でしょう。西暦では、お幾つですか」と聞くと七十三歳だという。笑わない人だった。
バワの家から山側を眺めると、高い木にドリアンが実をつけている。ジャックフルーツ、ランブータン、パパイヤが見える。静かである。鶏の鳴き声が静けさを破る。
僕は、十五分位で、挨拶をして帰るつもりだったが、とんでもない話で、バリのおもてなしをこれからしっかり受けることになった。今日は特別な客が来るということで、朝早くから、食事の用意するために、はるばるヌサドゥアからバワの妹達もお手伝いに来、従兄や近所の人たちも準備に集まっていたのだった。一同集まって食べる形式をムギブンと呼び、これがバリのナシチャンプルだという料理がでてきた。一つは、ジャックフルーツと豚の皮が主になったもの、クローブの葉とインゲン豆と豚の皮が主になったもの、若いバナナの木を主としたもの、アヒルのアヤンバンガンブンブバリ、サテなどなど。たいへんなご馳走である。これがまた美味しく、バリの米も美味しく、うまい、うまいと食べたのだった。これを作る為にみんな集まってくれたのである。
食事の間、いろいろと話をし、その後、村を少し歩いた。ヌサ・インダーという赤い舌のような花の名を知り、道端の植物をあれこれと見た。五百メートル先がラフティングの出発地点である。そこがこの村の端である。この村の人口は三百人。一つの村に五つのバンジャール(自治会)がある。
闘鶏をやっているというので見に行った。男たちは、軍鶏の品定めをして、金を賭けている。この闘鶏は村の寺院の改築費用捻出の為に行われているのだそうだ。
道端にパイナップルが生えている。ランブータンが生えている。三百人くらい生きてゆくのに十分な食糧がこの村にはあるように見える。僕は海育ちなので、このようななり物は珍しい。バリ島ではやっぱり魚は食べられないなと思う。魚を運ぶには気温が高すぎ、遠すぎる。
「仕事をリタイヤしたら、ここに戻るのかい?」とバワに聞くと、「そうだ」と答える。
村を遠く離れた者も、バリでは実家の村に所属するため村のセレモニーの時は必ず村に戻ることになる。デンパサールの村組織には属さないのだ。村をいつまでも宗教的に行政的に支える仕組みになっている。
甘いバリコーヒーをいただいて帰途に着く。クリスマスである。夜、グランブルーでは、スイスのグループ、オーストラリアのグループ、日本人達のグループで賑わっていた。
シェフのバワは大忙しだった。