25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

58年ぶりに

2019年05月25日 | 日記
 イオンを出て駐車場までの間、すれ違う初老の男と顔を合わせた。たぶん、目をあわせたのだろうと思う。「じゅんちゃん?」、はて、あっ「あきちゃん?」。58年の歳月が経っているにもかかわらず、パッとわかった。
 あきちゃんは尾鷲の中学校にはいかず、大阪の中学校に行った。小学卒業後会うことはなかったが、あきちゃんの母親をよくスーパーで見た。教育熱心な母親だと思っていた。あきちゃんの母親を見なくなって四年。あきちゃんと偶然会った。「互いの58年を話そう」ということになり、三日後の昼「葉っぱがシェフ」というレストランで会おう、ということになった。
 3日後、「葉っぱがシェフ」に着き、まだあきちゃんが来ていないので、裏庭を見て廻っていた。中村山の裾を上手に使って、よい借景を作っている。シェフが声をかけてくれた。ぼくにはこの人もまた懐かしい。彼はあきちゃんをよく知っているらしかった。
 誰それはどうしている。だれそれとだれそれとだれそれの、お母さんはわれわれ二人の母親と同い年とか、あきちゃん、よくおぼえている。「葉っぱのチーズ」「自家製の生ハム」「縄文焼き鍋」にワイン。生ハムが美味しく、特製のパンも旨かった。

 話は弾み、瞬く間に時が経ってしまった。
 あきちゃんのお母さんは帰り道を間違えて山の中に入ってしまい、滑落したらしい。捜索をしたが見つからず、7か月経って白骨となって発見されたという。ぼくの母も同じようなことがあった。ふらふらと、何を思ってか北浦の奥地に入ってしまい、その辺の叢に足を取られた。母の場合、運良く、人が近くを通った。それで発見されたのだった。
 もうこの年頃になると人の生き死になどに驚きもせず、無情感もない。粛々と人は交替していくだけである。
 また会おう、と言ってぼくは尾鷲小学校から下り、彼は泉方面に上ったのだった。

栃ノ心応援

2019年05月25日 | テレビ
 大相撲のこと、今場所、物言いをつけるべきところをつけない取り組みがあり、首を傾げた。また審判部長のトンチンカンな説明に力士も視聴者も困惑したことがあった。手をちゃんとつけない力士も多く、見てみぬふりをしている。貴景勝のようなに両手をきちんとつけてから立ち会わせるべきだと考える。
 それにしても昨日の栃ノ心は可哀想だった。涙ながらをこぼしたことも、ジョージア語で喚いたことにも同情する。仮に朝乃山が優勝したとしてもすっきりしないことだろう。
 一番の原因は何か。それは審判部長の説明不足にある。ビデオでは踵が着いていないように見えるのに、どうして踵がついたと判断したのか、をわかるように説明するべきだ。俵の上には砂が散らばっているものである。放駒親方の言う砂が舞ったのは俵の砂が落ちたのではないか。ビデオよりもその現場の前にいる審判員の意見を聞いた、とネットニュースなどでは書いている。取り直しをさせるという判断もあったはずだ。
 映像判断か、言葉の判断か。
 栃ノ心には「あんな相撲はとるな」「前へ出て攻めよ」というしかない。あと1勝だぞ、栃ノ心。怪我から這い上がってきたときの根性みせろ。固くなるな。廻しを掴め。