25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

親と子の永遠の問題

2019年05月31日 | 文学 思想
人間は親の良し悪しにかかわらず、生まれたというそのことだけで、倫理を有する存在となる。そしてそれは責任となる。こう考えるのは例えば岩崎隆一のような殺人犯の親は彼を捨てた。母親と父親の関係はどうだったのだろう、母親はどんな人柄で、息子をどう育てたのだろう。おそらくは母のお腹にいた胎児の頃から乳児期まで母親の心や体の調子はどうだったのだろう。その時期夫は妻にどう接したのだろう。このあたりのことが犯行の根源的なものだと思うが、それでは、そんな母や父を作った親はどうなのだ、そのまた親はどうなのだ、とこの問いは際限がない。

 要するに、この世に生まれ出た子が背負う倫理というべきものをキーワードとして導入するしかない。ただ親の子育て失敗責任は99%はあるのではないかと思うが、それを突き詰めることができない、ということに人間の手が届かないところがある。

 脳のブローカー言語野には、カメラのようにひいて映すところとアップで映すところがあり、アップの像に母親の笑顔が大きく映っていたら、物事をひいてとらえ、客観性を持ち得るように脳が育っていたら、と思うと、なんともやるせない。しかし、これは少年の殺傷事件ではない。岩崎隆一は51歳である。親を克服する、脳を正常に戻すようなチャンスはあったはずである。ブロカー言語野に大きなラーメンが浮かび、食べたいと思っても、ぼくらはときによっては我慢もできるし、ラーメンをアップの像からひくこともできる。

 戦争以外の人殺しでは最悪の人殺しである。このような事件で社会生活を営む人間は怯んではいけない。怯んで神経質になると、それを利用しにかかるものも出てくるし、神経質のシッペ返しもくる。岩崎はそのようなことまで考えていないが、また監視社会は一歩進み、警察国家へと一歩近づく。権力に抗えなくなる国家はよい国家とは言えないのだ。