25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

小さな悪の華

2019年05月17日 | 映画
 貴景勝の休場で、面白味は減ったが、栃ノ心と朝乃山が全勝で踏ん張っている。それに炎鵬の勝ちかたに凄さを感じて4時からの大相撲はまだ今のところしらけることなく観戦している。
 ダイエットが効を奏しているのだろう。74キロとなった。あと4、5キロを2、3か月かけて減らしたい。今日は病院で血圧を測ってもらった。上が120、下が70だった。この前は130と80だった。これは降圧剤を飲んでの話であるが、それでも10減っている。「先生、体重が4キロほど減ったせいでしょうか」「そうやろな」「薬をやめるというわけにはいかんのやろか」 もうちょっと体重落として、様子をみよか」と言う。
 ようし、夜の食事制限を続けようと思い、やはり何にもまして酒量を抑えなければならない。男と女お寿命の違いは「酒」にあるのではないかと思っているくらいだから、酒には注意しなければならない。
 まだまだ鬱陶しいことが続く。歯周病である。これはどうにもならない。歯周病を予防するものは売っていても治すものは売っていない。時間の問題で歯がぐらついてくる。歯医者さんが「歯の大改革計画表」でも作ってくれて、これでいきましょう、などと言ってくれる歯医者さんであればいいが、ぼくが知る限り、言葉少なめな先生が多い。

 1970年に大阪でフランス映画「小さな悪の華」を見た。記憶に鮮やかな良い映画だった。二人の思春期の女子がカトリックをからかい、大人をからかう。宗教にも縛られず、家族からも縛られない。悪に身を捧げる少女二人の話である。ネットでDVDが出ていることを知って、購入した。それを昨日見た。スペシャルがあって、当時の主人公をした女性が50年経って、インタビューに答えていた。若かった監督もすっかり年をとり、老人であった。
 この映画は地元フランスで上映禁止となり、お蔵入りするところだったが、8か月後、イギリスの会社が買い、次いでドイツの会社が買う、ということで、日本でもどこかの会社が買ったのだろう。どういう経緯になっているのか知らないが、再びこの映画は姿を消し、50年経ってDVDで出てきたのである。
 大人の汚さ、狡さ、信仰者の嘘、嘲笑うかのように狂おしく小さな悪を働いて嬉々とする。
 1968年に制作したと当時30そこそこの監督は言っていた。自分の思春期の頃が反映されていると言っていたから、映画の舞台は1950年くらいではないか。その頃のフランスの地方はカトリック社会だったのだ。この50年で自由を希求した少女たちに支持が増えたのだろう。最後に舞台で「ボードレール」の詩を力強く朗読した。羊のようにおとなしいカトリック信者たちで親である観客はその詩の素晴らしさみ拍手喝采、興奮したのだった。自分達が批判されているとも分からず、ボードレールの言葉には感じるのである。それが大衆だ、と監督は言っているようである。
 

日本軍の兵士

2019年05月15日 | 社会・経済・政治
 日中戦争から太平洋戦争で日本人は軍人、軍属、民間人含めて310万人が死んでいる。その内の8割が戦争が終わる前の1年の間に集中している。すでに進出した東南アジアから採った資源を運ぶ船も軍事物資を運ぶ船も激減していた。軍人たちは戦死もあったが戦病死、餓死が多かった。アメリカは日本人兵士の心理分析を行い、それらのデータで、進駐軍が日本列島に踏み込んでも大きな混乱は起こらないだろうと踏んでいた。その大きな原因に軍隊の、上司、上層部の作戦力のなさ、馬鹿さ、士気のあがらなさがあった。岸元首相だの、中曽根元首相たちは前線にはいなかった。東條英機もいなかった。もちろん、陸軍大臣も海軍大臣もいなかった。1945年8月ではなく1944年に戦争を終えていれば死者8割が生き残ることができた。決められ内閣であった。天皇の鶴の一声があれば、と思うが、内閣は天皇に正しい情報を伝えなかった。
 頭が良いとされ、優秀な学業成績で、日本の各分野のリーダーになった人たちである。アメリカの兵力を客観的に分析すれば勝てるはずもない国力だった。それを軍部は精神論で戦うという愚策でどこまでも推し進めた。
 この国のリーダーたちは戦後73年で戦争から何を学び、リーダーとして成長しているのだろうか。ぼくらより若い丸山議員の意見を聞いていると、自分が前線に立って戦争にいくことは想定していないように思う。石原慎太郎と橋下徹が日本維新の会を立ち上げた時、丸山のような類が入ってきたのである。
 集団的自衛権が行使されれば自衛隊に入る人ーが減る。貧しい家庭の少年に勧誘がくるようになる。あるいは軍隊の専門的技術は公平に徴兵制によって国民にも習得してもらうほうがよい、と言い出す学者も出てくる。
 中公新書「日本軍兵士」(吉田裕)はデータとしても、文体としても冷静な書物であった。

2000年12月25日の思い出

2019年05月14日 | 日記
 現在1999年から2003年まで書いた「僕のバリ日記」を校正している。ひとつひとつ読んでいると同じ体験をまたしているようで奇妙である。忘れているものもある。熱帯での日々は疲れるものだった。日本人のように速く歩くのはぼくに言わせれば御法度である。だいたい日本にいるときの60%くらいの少ない、遅い動きをする。仕事もそうで、イライラしてはいけない。注文しても時間はかかる。
 バリ島にいるときは結構好奇心をもって暮らしていた。植物、果物、絵画、舞踊、音楽、宗教、生活感、村落共同体、バリアン、プダンダ、いろいろなことを知った。そして考えた。
 1999年に尾鷲のある病院で「慢性膵炎」と診断され、それが伊勢の市民病院で「誤診」とわかるまで三年かかった。「慢性膵炎」というと治らない難病で食べる物から脂気をなくさなければならなかった。しかしおかげで体重は減り、学生時代のようになった。胃潰瘍だった。これはすぐに治った。優れた薬があるのだ。

 1999年から20年経っている。2019年。バリ島での仕事は終えてから四年になる。こんなことがあったことを思い出して懐かしさでいっぱいになった。昨日檀ふみが、一年分の日記を書き移した話をしていた。二度経験できる、というのがよくわかる気がした。


 2000年12月25日  バカス

 「バワの家に行こう」ということになった。バワはデンパサールに住んでいるから、てっきり車で二十分のところだと思っていたのだが、バワの家という限りは、バワの実家のことであることが行く前にわかった。クルンクン県にある。クタから車で北へ約一時間半。ギャニャールを通り、スマラプラから約5キロ、バカスという村である。

 たいへんな田舎であった。バカスの村の入り口に割れ門があり、そこからバカスの村なのだが、あたりは棚田とジャングルで割れ門から2~3分走ると人家が見え始める。大きな家ばかりである。

 仕事がないためバワやさらに若い世代はこの村を離れ、デンパサールやクタ、サヌールに出かけ、そこで仕事を見つける。バワは、このバカスの実家の跡継ぎであり、バワが実家へ帰るとなると、そこは本家なものだから、分家の親戚筋が集まってくるそうだ。
三百坪以上はあるだろう。そのうち百坪程は家の寺院になっており、三棟の一階建ての建物がある。各建物の扉はジャンクフルーツの木でできており、鳥や花の木彫りがほどこされている。宮殿をずっと小さくしたものだが、そこにバワのお父さんが一人で住んでいるのである。弟がすぐ近くにいるし、一人で住んでいるというより、親戚一同、近所の人一同と住んでいると言った方がよいかも知れない。

「お幾つですか?」と聞くと「八十三歳だ」と言う。「バリ暦でしょう。西暦では、お幾つですか」と聞くと七十三歳だという。笑わない人だった。

 バワの家から山側を眺めると、高い木にドリアンが実をつけている。ジャックフルーツ、ランブータン、パパイヤが見える。静かである。鶏の鳴き声が静けさを破る。

 僕は、十五分位で、挨拶をして帰るつもりだったが、とんでもない話で、バリのおもてなしをこれからしっかり受けることになった。今日は特別な客が来るということで、朝早くから、食事の用意するために、はるばるヌサドゥアからバワの妹達もお手伝いに来、従兄や近所の人たちも準備に集まっていたのだった。一同集まって食べる形式をムギブンと呼び、これがバリのナシチャンプルだという料理がでてきた。一つは、ジャックフルーツと豚の皮が主になったもの、クローブの葉とインゲン豆と豚の皮が主になったもの、若いバナナの木を主としたもの、アヒルのアヤンバンガンブンブバリ、サテなどなど。たいへんなご馳走である。これがまた美味しく、バリの米も美味しく、うまい、うまいと食べたのだった。これを作る為にみんな集まってくれたのである。

 食事の間、いろいろと話をし、その後、村を少し歩いた。ヌサ・インダーという赤い舌のような花の名を知り、道端の植物をあれこれと見た。五百メートル先がラフティングの出発地点である。そこがこの村の端である。この村の人口は三百人。一つの村に五つのバンジャール(自治会)がある。

 闘鶏をやっているというので見に行った。男たちは、軍鶏の品定めをして、金を賭けている。この闘鶏は村の寺院の改築費用捻出の為に行われているのだそうだ。
道端にパイナップルが生えている。ランブータンが生えている。三百人くらい生きてゆくのに十分な食糧がこの村にはあるように見える。僕は海育ちなので、このようななり物は珍しい。バリ島ではやっぱり魚は食べられないなと思う。魚を運ぶには気温が高すぎ、遠すぎる。

 「仕事をリタイヤしたら、ここに戻るのかい?」とバワに聞くと、「そうだ」と答える。
村を遠く離れた者も、バリでは実家の村に所属するため村のセレモニーの時は必ず村に戻ることになる。デンパサールの村組織には属さないのだ。村をいつまでも宗教的に行政的に支える仕組みになっている。

 甘いバリコーヒーをいただいて帰途に着く。クリスマスである。夜、グランブルーでは、スイスのグループ、オーストラリアのグループ、日本人達のグループで賑わっていた。
シェフのバワは大忙しだった。



耐え忍ぶぞ

2019年05月13日 | 社会・経済・政治
この日本は戦後、団塊の世代が大人になってから、彼らがずっとこの国を引っ張ってきた。それは一国の総理になったという話ではない。一番人口の多い、この世代は当然一番票も多い。政治家は無視できない。十把一絡げで言ってしまうようになるが、団塊の世代もいろいろな人がいることはわかっている。この世代はすでに定年退職をし、七十代になっている。2022年には後期高齢者となり始める。国の医療費、介護費は上がっていく一方で、団塊の世代が退場していくと今度は段階ジュニアの世代が後を追ってくる。選挙票の多い、この団塊と団塊ジュニアの機嫌を損ねるようなことはできない。
 だから当面この二十年は社会福祉の大改革はできない。団塊ジュニアが去るまでなんとか二十年、消費税を上げたり、年金給付年齢をちょっと上げたり、医療費負担分を1割から2割にしたりして対処療法でやっていくのだろう。若い世代にツケをいっぱい背負わせて、20年が経つと、現在の国民の貯畜額1800兆円と国の借金額がだいたい同じくらいになるから、大革命はこのくらいの時期になるのかもしれない。一度パニックが来ないとこの国は再生できないのだろう。
 日本はこの時期には中進国、または先進国の中の大停滞国になっていくのだろう。さらに年月が進んでいくと、空き家だらけで、地方の小さな市や町は消滅し、ある程度の都市に人が集まるようになる。これまで作ってきた公共工事の維持メンテナンスもできなくなってくる。
 と以後悪い風に考えてしまう傾向があって、僕はこれまでは楽天家で物事を良い方にとり、ネガティブに考えない人間だった。
 もちろん科学技術や医学は社会がどうあろうと研究を続ける人がいて、大きな成果も出すことだろう。空飛ぶ車、新しいドローンが次々と登場。人工知能。IoT。高速鉄道。病気の克服。若さの維持。
 昭和の戦争が終わったあとも人はたくましく生きて行った。だからこれからの困難でさえ、耐えしのんでいくのだろう。ぼくもそうありたいと思っている。
 

村上春樹のお父さん

2019年05月12日 | 文学 思想
 78キロになってきたので、いささか驚いてダイエットを始めた。酒、食事の制限である。こもときに丁度、脊柱管狭窄症のような症状が出て、脚が突っ張り、痛くて前に進めなかった。同時に風邪をひいた。咳で肋骨を傷めた。三重苦であったが、脊柱管狭窄の方は屈伸で床に手をつけるようにするがなかなかつかないので、細君に腰を押してもらったら、手が床につくようになって、それ一発で治ってしまった。ときどき、椅子に座って腰をグイグイ曲げるときに両足首の踝のところを親指と小指で挟みんで、グイグイと圧をかけるのである。岡田さんは立ってやるようにいったのだが、自分でする場合、踝まで手が届かないので、座ってやってみたというわけだ。100回ぐらいグイグイとやる。狭窄したところが拡張するようで気持ちがよい。
 今日、また掃除草刈りとしたが、以前のように元に戻っている。
 肋骨ももう痛みがなくなり、風邪も抜けて行った。
 食欲がなかったから食事の制限もできたのだが、体調がよくなってくると、酒の量も増える。
体重は今日で74、4キロまで減っている。70キロを切るのがとりあえずの目標である。
 不思議なものだ、イヤなことはまとめてやってきた。ひとつひとつ対処していたら、一つずつ、抜けて行った。

 昨日「文藝春秋」を買った。村上春樹が自分の父親について書いた開手記を掲載されていたからだった。父と疎遠となり、20年も会わない関係だったという。父子の関係にかねてから好奇心があったので、昨晩、一気に読んだ。村上春樹のお父さんは三度召集された。ほとんど兵士が死んだような師団にいた。馬を運ぶ役割だったらしい。ひどい時代の青春だった。ぼくには崇高な精神を持ち得た当時の日本人などと、とても八木秀次(麗澤大学教授)のようには言えない。
 チフス、マラリア、餓死で死に、食糧も武器も不足で、戦略もない戦争に行かされたのである。戦争だけはやってはいけない。戦争の扉さえ作ってはいけないと思う。
 ところで、なぜ、村上春樹のお父さんは記録として、あるいは当時を振り返るエッセイとして青春時代の見、聞き、感じ、考えたことをメモにしておかなかったのだろう。歴史をつなぐとはそういうことである。なぜなのだろう。
 

日向灘地震

2019年05月11日 | 社会・経済・政治
市内をミニバスなり、相乗りタクシーなりがクルクル回っている交通インフラを作ることは必須で、喫緊の課題である。一度シュミレーションを立ててみればよい。この問題を捨ておくのは政治家としては、本質が問われる問題だ。
 名古屋市は名古屋駅近くの学校を利用して起業したい人、すでに企業している会社に部屋を貸し出し、資金面の相談にものる政策を打ち出した。尾鷲もこのくらいのことをやればいいと思う。別に行政がやらなくてもよいのだ。コーディネターがいればよいのである。地域起こし協力隊が制度としてあり、給料をもらって三年ほど尾鷲の町を応援するわけだからそういう人がコーディネーターになってくれていいのだ。
 尾鷲市はこの十年、本気だして発想を変えて人口減少を食い止めなければならない。毎月20人から30人減っている。

 話題変更。昨日宮崎県沖の日向灘で地震が起きたので、これはヤバいとびっくりした。ここで地震が起きれば、南海トラフに連動する恐れがあるということは、以前から知っていた。気象庁、政府は6.3のマグネチュードなので、すぐに南海トラフに連動しないとした。この気象庁の発表は妙で、地震はいつきてもおかしくないから常に備えよ、と言わなければならない。学者は100年や200年に一回南海トラフ地震が起きると言っていたがこの言い方もおかしい。100年と200年と簡単に言うが、言い方には100年の差がある。もうすぐ来る、とテレビや県や市がいい始めて10年にはなる。だがまだ地震は来ない。ぼくはとにかく逃げることにしている。南海トラフ騒ぎで、港付近の土地家屋は値段もつかないほどになっている。なのに固定資産税は変わらない。
 津波には逃げるが勝ちで、みな流してくれるから、その後の都市計画流行りやすいことだろう。このとき知恵が必要である。そしてそれは明日のことかもしれない。自然災害はそういうもので、
対処もそういうものであると思う。いつ来るかわからない、来たら市の大改革である。
 

あたらしい記憶ができない母

2019年05月10日 | 日記
「赤ちゃんで生まれてきてね、大人になって、また赤ちゃんになっていくんですよそれでいいんですよ」と医者がぼくの母に言っている。母は「なんでもこどもにしてもらって・・・」というと、「そういうもんなんですよ」と優しく言って、血圧と脈をとり、聴診器を胸と脇腹、背中に当てる。
 母はめっきり記憶ができなくなったが、トイレの行き方まで忘れたわけではなく、言葉もおぼえている。つまり新しい記憶ができないのである。急にガタンと記憶力が落ちたので、このままで大丈夫なのだろうかと思った。例えば、土曜日と日曜日はデイケアがない。この二日間で調子が狂う。今何時かわからなくなる。朝ご飯を食べたか、昼ご飯を食べたかも忘れる。いずれ、肢が悪かったことも、杖が必要であることも忘れてしまうのではないか、と心配する。
 一方で、若い時から便秘薬と睡眠薬がないとひと騒ぎしていたのが、ここ半年で飲まなくなった。薬が減ったのだから肝臓も腎臓にも負担は少なくなったことだろう。
 母の母親と母の妹が癌になったので、それを気にしていたが、癌にもならず93歳である。この八月で94歳になる。
 ぼくのほうから見れば、まだまだ生きるような気がする。周囲の人もそういう。食欲はあり、肉とマグロをガンガン食べている。
 九鬼の病院との行き来、毎度同じことを言う。「長いトンネルやなあ」「これは海かな「「九鬼はブリがよう獲れるやり」「ブリが獲れるんで九鬼の人間は威張っとった」
「もうじき九鬼に着くけど、九鬼のどこへいくん?」ときくと、「どこやろか? わからんよ」
「九鬼の病院やで」「病院? わたし、どこそ悪いんやろか」「まあ、定期検診みたいなもんさ」
 まだまだ九鬼行きは続きそうである。

いつの日か

2019年05月09日 | 社会・経済・政治
 なんだか肌寒い日が続いている。1995年の阪神淡路大震災が起こったあと、オウム真理教の一連の事件が起こった。1997年には神戸で酒鬼薔薇聖斗の児童殺傷事件が起こり、14歳の少年Aが逮捕された。ぼくは会社をダメにし、再起する決意をしようとしていた。あえて平成の時代という括りで言えば、政府の経済政策は自然衰退産業に延命もための資金をつぎ込み、借金を増やさせ、銀行は自由化によって揺らぎ、政府の新規事業策にも両者で大きな乖離があった。債権回収会社が外国からもやってきたのはこの頃である。
 インターネットの普及が一気に進み、資本主義社会では市場原理主義が進み、イスラム原理主義者たちによるテロ事件がアメリカを襲った。
 東日本大震災が起こった。この災害には原子力発電所が破壊されるという歴史上にない大惨事となった。終末処理法がわからないまま原発を作っていたことも世間に明るみとなった。放射能汚染水を貯めたタンクはどこまで広がるのだろう。やがて海に放出するしかなくなるか、放射能そのものを無化してしまう技術ができるのを待つか。熊本でも大地震が起きた。東北、熊本で仮設住宅に暮らす人の数も減らないうちにオリンピックがきてしまう。決まってしまったことにいまさら水を差すな、という言霊崇拝を根にもつ多くの保守論者は、未だに公共工事が経済力に貢献すると思い込んでいる。小泉純一郎首相の時で、この公共工事至上主義は終わったかに見えたが、安部政権で見事に復活した。
 スマートフォン、タブレットの登場で人間の姿勢が変わることになった。これからの人間はストレートネックで悩むことになる。頭痛が持病となるのである。一方で、遠いところでも無料でテレビ電話もできる。静止画も動画も瞬時に送ることができる。メール交換ができる。通信販売ができる。地図が簡単に検索できる。便利この上ないこの道具は通信インフラが背負っている。5Gとなればますます便利になる。これらのことは30年もしない間に起こったことだ、

 その技術の変化に比べてホモ・サピエンスが岐れかかっているように見える。あいも変わらず宗教戦争(これは国家間の戦争も同じである)があり、宗教テロがあり、民族間対立が未だにある。人間の進歩と科学の進歩とは歩調を合わせていないように思える。強固な共同幻想がホモ・サピエンスを滅ぼすのである。観念を替えないとホモ・サピエンスは滅ぶのである。
 ホモ・サピエンスはいつの日か宗教を捨てることがあるのだろうか。
 ブロックチェーン、仮想通貨、AI、Iot、ロボティクスはホモ・サピエンスが手にするものなのだろうか。観念の有り様が変わった時、一部の人間に新しい名前がつくのかもしれない。ホモ・○○○と。
 
 

日本語で考える人

2019年05月08日 | 文学 思想
 日本語で考え、日本語で話す人が日本列島人である。方言というのはそのグラデーションだと思う。
 日本人のこころとは? 日本人の本質とは? とよく新書判にありそうな題であるが、僕らの意識を規定するのはぼくらの言語である、ぼくのなかには、おくも、俺も私も、自分も存在するし、あなた、おまえ、君、貴様も存在する。いたって複雑である。
 ぼくは尾鷲の寺町の路地で生まれ、路地のこどもたちと遊び、やがてあるいて五分ほどのところにある尾鷲幼稚園に行った。父は若い頃沖縄へ徴用された。ぼくが中学を卒業する時分まで遠洋マグロ船に乗っていた。母は夫のいない間は暇そうで、夏休みや冬休みとなると
清洲や稲沢、大阪の河内長野に長い間出かけていた。ぼくには三歳上の努力する成績のよい姉がいた。
 父や母の周辺のことを書き出せば自分の核の部分が大きくなってしまいそうなので、自分の住まいと家族だけにおさめておく。いわば両親の遺伝子をのぞけばぼくの原形は寺町、路地、留守がちな父および無口な性格、自由そうな母の性格、成績のよい姉からぼくは構成されるように思う。

 だからいくつの日本人論があっても、所詮、日本語、しかもその亜流である尾鷲弁、寺町となり、ぼくの場合、農耕にも届かねば、天皇にも、武士にも届かない。
 今のぼくがここに存在するということは親がおり、その親にまたそれぞれの親がおり、それぞれの親にまたそれぞれの親がいる、というふうに遡っていけばどこまでも遡っていけるのである。

 中国の大陸には様々な人種が集まっていた。長く日本列島には縄文人が暮らしていた。紀元前1000年以降くらいから、朝鮮半島を経由して弥生人が入ってきた。縄文人と弥生人がいつのまにか交じりあって現在の日本列島人になったのかと思いきや、朝鮮半島からの流入は延々と続き、縄文人と交わらないケースもあった。200年頃の話である。
 朝鮮半島からくる人々もバイカル湖ルート、モンゴルルート、東南アジアルートがあり、縄文時代のように海路で列島に到達した人も続いたことだろう。
 このころの歴史の中にもぼくの祖先たちは必ず、子を産むまでは生きていたはずで、ぼくがここに存在するのが証拠となる。 
 いずれかの時期、ぼくの先祖はどんなルートをたどって、どんな人と一緒になってということが遺伝子解析でわかるようになるかもしれない。
 しかしながら日本人の本質などと考えてみると、血統から辿ってもしかたなく(どこかで異人種、異民族と交わっているのであるから)、日本語で物事を考える人としかいいようがなくなる。

マスコミに注意する

2019年05月07日 | 社会・経済・政治
 歴史的には天皇は推古天皇(女性天皇)までしかたどれないそうだ。その前は大王であり、その前になると伝承・神話の世界となる。
 皇室はこのままでいくと悠仁様が天皇となり、その奥方である皇后が男の子を生まない限り、存続が難しくなる。そうなればなんらかの方策を考えるつもりなのだろうが、「男系」「女系」に拘る人たちがいて、そういう日本会議や事務方の日本青年協議会たちが安倍政権を支えているから、あまり賢いとはいいがたい安倍首相は成長の家原理主義者のいいなりになっているように思える。成長の家はエコロジーの宗教団体として創始者であった谷口雅春の考え方から脱皮していているが、この谷口雅春を信奉するものたちが現在の政治にある一定の影響力をもっているのだ。彼らは「男系」一辺倒である。生前退位などあってはならないと考える。目線を同じにして庶民と話すことにも反対する。天皇は万世一系であり、霊的権威者という存在である。「祈ること」がまず第一と考える。

 ぼくは天皇家は自らが決めればよいと考えている。確かに国が分断の様相を見せた場合、統合の象徴としての存在があった方がよいのかもしれない。それも天皇家が考え、決めればよい。天皇はロボットではないのだ。精神を持った人間なのだ。皇室を続けていくと決めれば、多くの国民はそれを支持するだろうし、皇室を廃止したいと決めれば、ショックを受ける人もいるだろが、よくよく考えてみると、それもありか、その意思を尊重しようとなるのではないか。象徴としての皇室は終わるが、女系であれ、男系であれ、遺伝者はつながっていくわけで、皇室の血が途絶えるわけではない。

 元号も不便なものだが、日本会議が元号法制定に尽力した甲斐があってか、元号ブームになっている。大宰府に、伊勢神宮に、皇居に人は押し寄せる。メディアはこれを大々的に報じるが、「男系」「女系」の歴史的事実についてはこれまでにわかっている歴史的事実を伝えない。マスコミには危ない雰囲気がある。マスコミの報道によって人は踊る。
 憲法に自衛隊と明記されれば誇りをもって活動ができるなんてのは体のよい嘘だ。確実にアメリカの戦争に巻き込まれるだけの話だ。戦争をしないようにするのは政治家の務めであり、自衛隊員も国民も戦争には絶対に参加しないのだ。


 

何があろうと

2019年05月06日 | 文学 思想
1999年の最初のブログを校正している。すでに二十年前のことだ。こまめに「ぼくのバリ日記」として書いている。文を読めば読めばだいたい思いだす。
 バリ島だけが日本から遠く離れるために、自己慰安ができる場所でもあった。縁あって、自分の意志で1999年からバリ島を仕事場に選んだ。歴史でいうところのアジア的段階が色濃く残り、村落共同体は強固の存在し、警察さえも手がだあせないほどの村の法と政府による近代法が二重にあり、村落共同体の遵法精神の方が高いのではないかと思えるほど、村落は強かった。欧米の文明がちょっとづつ入ってきていた。ぼくが初めてバリ島に家族と一緒に行ったのは一九八九年だったと思うが、そのころにバリ島にはテレビはほとんどなかった。旅行会社の車はあったが、個人用の乗用車はほとんど見なかった。
 政府のバリ島近代化策はリゾート策であった。空港を整備し、サヌール、ヌサドゥアにホテルを誘致し、それにバリ島の絵画や舞踊、音楽、マリンスポーツが合体した。台風の来ないこの島は年中観光客が来れる。いつのまにか世界でも有名なリゾート地となった。
 まだ当時の人々は西洋医学よりもバリアンという呪術師を頼みにしていた。
2016年まで二ヶ月一度バリ島に通った。それまでの日々のキオクハ薄まっていくばかりだが、このようなブログが残っていると、ありありと思い出すことができる。文に書いたことなどわずかなだんぺんであるが、ぼくのこころの指向性がよくわかる。2つの爆弾テロ事件がまたぼくの人生を分断したと当時は思ったが、この楽天性と自信が変わらない限り運命も変わることはあるまいと今は考えている。
 

2つの掘り出し物映画

2019年05月05日 | 映画
 Tsutaya にナタリーコールのCDがたったの200円で売っていた。これは拾い物だった。スタンダードジャズソングばかりで、彼女は一曲一曲をまるで歌曲を歌うみたいにくそまじめに歌っている、まあ、昔、藤山一郎とか東海林定夫のように歌っていたのだろう。父ナット・キング・コールとのヂュエットも入っている。
 ストリングスが伴奏に入っているので、ちょっと気にいらないが、なにせ200円のビックリもんだ。
 Tsutaya が昔の映画を発掘して準新作でレンタルしているのが多数ある。Tsutaya のスタッフがじっくりみて、これいいじゃないかと感じたものをDVDにしてレンタルで売り出しているのだりう。2枚借りた。偶然にも大林宣彦監督のものだった。ひとつは「北京的西瓜」もうひとつは「廃市」。「北京的西瓜」千葉県船橋市の八百春という八百屋の親父が中国人病といわれるくらい、中国人留学生の面倒をみる話である。物価の高い1987年の話で、実際はさらに9年前の話らしい。中国からの留学生たちはなにかと八百屋の親父におとうさんは、おとうさんと言って困ったことがあれば相談する。その病的なお世話に家族も巻き込まれ、八百屋春が納税してなかったことから、差し押さえが入りと、散々なのであるが、留学生たちが助けてくれる。彼らは国に帰れば、出世する人たちだ。医師や役人、海外で先進知識を学んだものたちである。感動とまではいかなかtらが、困っている人を見たら見捨てておけず、自分犠牲にしてまで入れ込んでしまう。
 「廃市」を借りたの福永武彦の原作本を大昔読んだからだ。「海市」はよくおぼえている。「風のかたみ」も興奮して読んだ覚えがある。ところが「廃市」は雰囲気くらいしかおぼえていない。「カモメ食堂」の小林聡美が主演である。今晩、観賞しようと思っている。なぜ忘れたのか、も探ってみたい。

通り道

2019年05月04日 | 日記
 今年の家の庭では木蓮が例年になく見事に咲き、山茶花もよく花をつけた。レンギョウ、万作はごく普通で、大手鞠が咲くとその後ろで藤が豪勢に咲いた。金魚鉢とメダカの水槽の上にはハナミズキの白い花が静かに、どちらかと言えば控えめに咲いている。今年も木瓜の花はうまく咲かない。どうしたものか。剪定の仕方を検索すことにしよう。
 体重が74キロ台になった。70キロを切れば、高血圧の薬も終えることができるだろう。体も軽く感じることだろう。
 まだ風邪は抜けきらず、この菌に2週間やられた。肋骨痛もずいぶんと楽に
なった。食欲が戻らない。
 今回の三重苦でつらつら考えたのだが、まず不快な歯を思いきってなんとかしなければならない。不快な食事とおさらばしたい。次にいずれ白内障になる、と眼科医に言われたので、手術をし、クリアなこの世がみたい。読まなければならない本もうんとある。耳は今のところ大丈夫である。前立腺も大丈夫そうである。
 こういうことをあまり考えたくないのだが、誰もが通る仕方のないことである。時に超人的な人もいるが。

その土曜日、7時58分

2019年05月03日 | 映画
 今日は客の入れ替え日なので、曽根に行った。家の前の海岸広場は釣り客でいっぱいである。
 庭の草木を少し切り、躑躅の高さを揃え、長い雑草を切った。連休が終われ草刈り機で刈り取るおとにしよう。足もそろりそろりと動かす。池の水草も適度取った。下半身に乳酸がすぐに溜まる。スプレイでもしたら乳酸が散って元気回復物質にならないものか。
 メディアは交通情報でも流さないといけないかのように、渋滞情報を真面目に流す。ディレクターがきっとくそ真面目な人で、メディアが情報をかき乱していることをしりながら、それ以外の企画が浮かばないのだ。令和、令和とあおぎ、国民の一部は騒ぎ、メディアは嬉しそうに映像にする。二人の小学生が驚いていた。今日も明日も変わらないのにと。よほど冷静である。
 テレビはこんなことばかりしているので、夜は映画でも観る

 昨晩は「夢も希望もない男たち」の映画を観た。「その土曜日、7時58分」というタイトルだった。因みに原題は Before the devil knows you are dead.(お前が死ぬことを悪魔が知る前に)
こんなタイトルをつけるとは、アメリカ人の多くの人は知っているのだろう。
金に行き詰まったと兄は同じく離婚による養育費と借金返済で苦しむ弟に、両親のやっている宝石店を強盗しようと誘う。ドジでまったくのカスの弟は実行犯を担当することになるが恐ろしくて、知り合いに頼んでしまう。はたして両親の母は強い女で、知り合いの男が入って行って、拳銃で脅すが、母は隙を見て犯人を撃つ。犯人も店番の女(母)を撃つ。その女は倒れても、二発目を見事に撃ち、犯人は死ぬが女も病院で死ぬ。ここから兄弟、両親、特に父親、妻、元妻たちの生活がさらに逆吊りのようになって転落していくのである。どこにも救いがなかった。
 

ちょっとずつ

2019年05月02日 | 日記
 三重苦のうちの肋骨痛がだいぶんとよくなって、もう二、三日もすれば完治しそうである。風邪がしつこく、夕方になると熱が出始める。咳はなくなり関節系への影響も感じないほどでる。
脊柱管狭窄笙症の方は施術のしかたがほぼわかってきて、屈伸をやっている。これをすると脊柱管
の歪んで圧迫される部位が拡張され、圧迫度がどうやら小さくなるようである。突然走ったり、勢い込んで歩かない限りは大丈夫だろうと思う。
 ダイエットの方も続いている。食欲もないので好都合である。
 一番の青葉の季節である。明日あたり、楯ゲ崎に行き、目の前で照葉樹林の春を見たい。中に入って歩いてみようとも思っている。樹木の幹の文様をみれば樹木の名がわかるようになりたいが
まだまだである。
 ついに1999年からのブログをコピー&ペイスでワードに入れ込んだ。そしてそれらをone drive に入れた。これからまた少しずつレイアウト、校正をしてゆく。ちょっとずつやっていけばやれるのだ。こういう根気のいることもでぃるようになった。昔はできなかったと思う。
 勘定してみたら、二段組にしてブログを全部本にしたとすると、800ページほどのものが十冊できる。
 毎日ちょこっと書くことも積もればすごいものである。