新たな年が明けました
あけましておめでとうございます
なんですけど、この云いまわしちょっと違和感ないですか?
新年を迎えたことを寿ぐ訳だが
何がそれほどめでたいのか現代人には正直ピンとこないだろう
元旦から七日までを松の内として祝い
あけて七日に七草がゆをもって日常へ戻る
それほどこの新年を大切にお祝いするにはもちろん訳があって
これは人がいつ命を落とすかわからなかった時代だからこその感覚であり
これだけ恵まれた環境境遇で生きていられる現代人には
もうすでに伝わらない価値観となっているからだろう
けれど21世紀を生きる我々でも
歳を重ねて少しでも身体に不調をきたしたりすれば
途端にこの「あけましておめでとう」が胸に沁みてくるはずだ
楽しみに待たれよ
いずれはだれの身にも訪れる境地なのだ
さて
世の中にはいろいろな人がいて
そして各々にそれぞれの考えがあるもの
だから最近では個人、個性を尊重しようという風潮が強い
しかし人間には、というか人間社会には同調行動を重んじる向きもあり
それが時に個人を無視して恐ろしいほどの潮流となることもある
個人個性の尊重は世間ではすでにガンジガラメと成り下がり
これは天邪鬼的にはとてもおもしろい状況で
「個性を大切に」という「同調行動」になってしまっているからだ
つまり社会に関わる時、人はみなその影響を受けざるをえないということで
周囲からの働きかけによって動き出す自我は
欲と欲のぶつかり合いという葛藤を経て
気付けば我利我利のこころにまで落ちていく
「意馬心猿」という言葉があるが欲に突き進む心はそれほど制御不能なのだ
自分のこれまでを顧みれば
その業の深さに情けなくなるほどの醜い生き様であったが
はたして、社会からドロップアウトした途端
うそみたいに憑き物はきれいさっぱり落ちて
生涯の中でこれほどピュアに生きていられる日々に
我が事ながら感謝しているほどだ
なにも「悪い事」を考えなくていいし、また考えることもない
善人振りながら醜い自分を横目に見て生きることの地獄から解放され
ゆったりと安心して日々を暮らせている
人と関わることで自分を汚く見失う性質の向には
早々隠居することをお勧めする
定年後の暮らしを退屈で無意味だと嘆く人がおられるが
それも価値観の物差しを自分の外に置いているからで
自分をいったいどれほどのものと認識してきたのだろうかと
哀れにも感じる
人間なんて所詮ゴミ屑みたいなもんだと理解すればいい
これは諦観だが
諦観とは諦め卑下することではもちろんない
出来ることと出来ないこと
なれるモノとなれないモノ
かなうこととかなわないこと
これをよく吟味して明らかにすることを諦観というのだ
「絶対に」「どうしても」という言葉が口から出るとき
人は原理主義に落ちている
原理主義の正義はとても不幸だ
晴れた朝、青空を見上げながら
熱いコーヒーを啜り
あー今日は晩酌の宛てに魚でも煮て食うか、と考える
それ以下でもなければそれ以上でもない
これが退屈か?
なら風の止み間に庭の落ち葉でも掃いて焚けばいい
縁側に座布団並べて昼寝しながら屁をこいてもいい
やっぱり無意味か?
それじゃあネコに聞いて回ればいい
「生きるとはいったい何なのでしょう?」
多分ネコはこう云う
「ニャーーーーーーー」とね
とにかくなんの悪い考えも浮かばないこの日々は最高だ
ボクもやっとネコの境地に辿り着いたのかな
いやピテカントロプスか
昨年末にちょっとトラブったクロ介(R100RSもどき)
寒い朝の始動に緊張する
が、そこは難なく1発で目覚めてくれた
どこへ行こうか、と考えながら
やはりここへ来ていた
ここ最近の冬は幡豆のこの海岸が定番だ
途中で形原の漁港を渡る大きな橋を渡り
わざとらしいパームツリーの海岸に出た
三河湾を渡る風が強くてクロ介がぐらぐらと揺れる
エンジンは相変わらず絶好調
イグニッションコントローラーの不調だったが
思い出してみると、謎のエンストにたまに見舞われていた気がする
あれは壊れる前兆なのかも
とにかく今年はクロ介に頑張ってもらわなくてはいけない
夏には北海道を走らせてやりたいのだ
そのあと久しぶりに西幡農道に入った
予想してはいたが昨日しっかり降った雨がまだ乾いておらず
落ち葉が路面に広がって全く楽しめなかった
それでも今年最初の散歩はやっぱり楽しかった
冬はあまり遠出もしないし山へも行けない
ヤマハのコミュニケーションプラザに行ってみようかなとか
雪をかぶった富士山見に行こうかなとか考えはするけど
どうかな
やっぱ行かないかも
ということで
今年もどうぞよろしくおねがいします
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