渋滞の掛川バイパスを「八坂IC」で下りて、がらんとした旧道を少し走って「日坂(にっさか)宿」への辻を折れた。
狭くて、曲がりくねり、おまけに上り下りもある旧街道をゆっくりと進んで、本陣跡の門前にあお号(R1150RT)を乗り入れて停めた。
本陣は明治以降小学校となり、いまでは保育園の敷地になっている。遊具もきれいに整備されて、園庭にはサッカーボールも転がっているが園児の気配がない。集団風邪で休園なのだろうか?
日坂の宿は、早々に旧国道1号線が宿場を迂回して出来たことや、その後自動車専用のバイパスが整備されたことで、そのまま時代に取り残されたのではないだろうか、道のクネクネさ加減から見て、道筋が昔のままで江戸時代から大きな変化はない様子だ。
街道筋に面した家々には、古の「屋号」がそれぞれに懸けられ往時を偲ばせてくれる。雰囲気の良い宿場跡だが、さすがに平日の午前は人通りもなくひっそりとしていた。
旧国道へ戻り、さらに少し行くと「小夜の中山公園」という看板が出る。看板に従って右に折れ、バイパスの下をくぐると道は急にその勾配を強め、茶畑の中をずんずんと高度を上げて行った。
遠くの山肌に「茶」の文字が。
すでに梅の花もほころび遠州に、早い春の到来を告げていた。ある程度上りきったところで、細い道にぶつかった。どうやらこれが旧東海道のようだ。一面の茶畑の中をさらに高度を上げて行く。一体どこまで登っていくのか。この辺りは「遠州の小箱根」と呼ばれていたらしく、名にし負う難所だ。
ややあって不意に勾配が緩くなり、峠に達した。「小夜の中山」とはこの難所の全体を指すのか、この峠自体を指すのか、わからないのだが、峠には久延寺(きゅうおんじ)と茶店があるだけでひっそりとしている。
久延寺の夜鳴き石伝説に出てくる「子育て飴」はこの「扇屋」という茶店でお土産として販売していることで有名だが、この茶店は漱石の「草枕」にも登場する。古くは江戸時代からここで商いしていたらしいが、この真冬の平日には店が閉まっていた。
看板は裏表で漢字とひらがなで書き分けられている。漢字が読める側へ進むと江戸へ、ひらがなを見て進むと京へと、街道筋ではそう決められていたらしい。
茶店から街道を挟んで、反対側に「西行法師」の句碑がある。
年たけてまた越ゆべしと思いきや
命なりけり 小夜の中山
西行法師がこの峠を越えた頃は、まだ東海道は整備されておらず、相当の難所であったと想像される。この歌を詠んだとき、実に69歳。奥州へ藤原秀衡を訪ねるための東下りで、「また越ゆ」とは人生2度目という意味だが、1度目は出家して間もない27歳のとき。僧侶として歌人として、その身とその思いを託す長い旅の途上だった。
それから40有余年。「命なるかな・・・」と西行法師の胸に迫り、口を突いたこの言葉はいったい何を指しているのか。
森本哲郎はこの「命」を「運命(さだめ)」ととって良いのではないかと書いていた。
実は今回この西行の「命なるかな・・・」の感慨に迫りたくてここへ来てみたのだ。
「小夜の中山」は時代に取り残されたまま、ただただひっそりと時間を浪費させているようにみえた。ボクは久延寺の山門からぼんやりと、見渡す限りの茶畑を眺め、西行の運命(さだめ)を思うばかりだった。
この後富士に達した西行法師はそこでかの有名な「ゆくへもしらぬ・・・」の句を残している。
小夜の中山で吐露した「命なるかな」の感慨は、噴煙のように立ち昇る、儚くあてのない思いとなって浮世をさまよい続けることになるのだった。
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