犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

記憶の星座

2012-05-04 01:14:00 | 日記

福岡伸一さんは近著の対談の中で、われわれが「記憶」について語るとき陥りがちな過ちについて述べています。それは、頭の中にビデオテープやスライドのような再生可能な貯蔵物質があって、必要なときにひとつひとつ引き出されるというイメージです。ところが生物体内のすべての物質は高速の代謝回転の中でたえず分解されているため、記憶が物質レベルで保存されるということはありません。
それでは記憶とは何なのか、福岡さんは次のように説明します。

星が線で結ばれてはじめて星座に見えるように、脳細胞の回路に電気が流れて記憶が再現されているのですが、脳細胞の回路は細胞の常としてたえず再編されているので、かつて流れていた場所のこの辺りかなという周辺を電気が流れているだけです。つまり、昔の記憶がそのまま再現されているのではない。むしろ記憶とはその瞬間瞬間で新たに作られているもので、蓄積されていたものが甦るのではない、と考えた方がよいのです。そして電気信号は、流れるとすぐに消えてしまいます。生命にとって情報は「消える」ことに意味があるんです。すぐ忘れて消えることに意味があって、いつまでも変わらず残っていては「情報」にならないのです。ある信号がすーっと出現し、またすーっと消えてゆく。その落差が次の反応や行動を呼び起こすからこそ情報なのであり、いつも同じ強度だと情報の役目を果たしません。(『せいめいのはなし』 新潮社 79頁)

どんな大切な人の思い出も、忘れられない記憶も、瞬間に消えてゆく電気信号にすぎず、しかも同一の電気信号ですらありません。そう考えると、われわれの一生など儚いほんの一瞬の出来事であるという、ある種の虚無感にとらわれてしまうかもしれません。

しかし、こう考えてみてはどうでしょうか。
かりに人間の記憶がアーカイブのようなかたちで、かっちりと固められていたとして、そこに豊饒な物語が出現するだろうか、と。
あらゆる出来事が厳密な因果関係でまとめられ、不条理の入り込む余地のない連綿とした物質のつながりであるとしたら、そこには「物語」が誕生する余地はないでしょう。
精神科医の名越康文さんは、人生を舞台化し、物語化してゆくためには不条理を受け入れ、楽しめるようになる必要がある、と語ります。Aさんが私にBをしてくれたから、そのお礼にCを返した、という因果関係のはっきりした出来事ばかりでは、物語にはならない。すべての条理が通っている物語は、物語として破綻しているのです。

そして、人生を物語化し、不条理を受け入れようとすることは「生きる知恵」でもあります。
不条理を受け入れない態度は、不条理なこと、つまり不安なことが起きないように、あらゆるところに予防線を張ろうと無意味な努力を誘発します。それは予め負けが決まっている戦いに挑むようなものです。

電気信号の強度はそのつど違ってわれわれの前に現れます。そしてその違いが人生を色とりどりに舞台化してくれるのだとすればこんな愉快なことはない、そう考えることもできるのだと思います。

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