去年の庭の剪定の時期が悪かったのか、今年は白木蓮を愛でる間も短く、早々に花が散ってしまいました。可哀想なことをしたと思います。
道を挟んだ神社の咲き誇る桜を傍目に、ようやく若芽を吹いたばかりの木蓮が立ちすくんでいます。
ここに立つ樹が木蓮といふことをまた一年は忘れるだらう
(荻原祐幸『甘藍派宣言』)
春の訪れをいち早く告げた木蓮は、主役の座をあっさりと譲り渡して、清々しい気配さえ漂わせています。いま満開の桜もやがて散り、主役の座をまた別に譲るのです。
于武陵の詩「勧酒」は、井伏鱒二の訳詞で、新しい命を吹き込まれました。
花発多風雨 花ひらけば風雨多し
人生足別離 人生別離足る
(井伏鱒二訳)
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
井伏鱒二が林芙美子とともに講演のため尾道に行き、因島に寄った帰りのこと。港で船を見送る人との別れを惜しんだ林が「人生は左様ならだけね」と言ったのが、この訳詞の元なのだと「因島半歳記」のなかで井伏が語っています。もっとも、井伏自身はその時の大仰なセリフが照れくさくて嫌だと思ったそうなので、いつのまにか訳者のなかで言葉が熟成していったのでしょう。
訳詞の出どころが因島港の別れだとすると、この詩の奥には無常だとか虚無だとかいった取り澄ましたものではなく、あたたかくもてなしてくれた人たちへの懐かしい思いが込められているのがわかります。
木蓮の花は散ってしまって、また翌年花が咲くまでに、木蓮であることすら忘れてしまいます。それでも、翌年の木蓮はきっと今年の色を宿して、深みを増しているはずです。「サヨナラ」を井伏に倣って「左様なら」と書き表してみると、楽しい思い出を胸に一歩を踏み出す様子が浮かんできます。