秋季茶会のお点前を務め終え、ようやく重い荷物を下ろした気持ちです。
お正客が風炉先屏風の先から優しい眼差しを向けてくださっていたので、広間の連客約30名の視線も気にならず、お点前を進めることができました。練習では、お正客に視線を向け声を掛けるタイミングにも気を付けて反復練習をしていましたが、本番では「お点前さん」と「お正客」の役割を超えた「お茶を差し上げる」という原点に立ち返ったように感じます。
床の間には「喫茶去」の掛軸が掛けられています。
中国唐代の禅師、趙州禅師の語録に残された言葉で、次のような注釈が付けられています。
趙州禅師が来山した修行僧の一人に「あなたはかつてここに来たことがありますか」と尋ね、僧が「ありません」と答えると「喫茶去(お茶をおあがり)」とお茶を勧めました。禅師はもう一人の僧に同じことを尋ねると、今度は「来たことがあります」と答えましたが、その僧にも禅師は「喫茶去」とお茶を勧めました。そばにいた院主が「初めて来た人にお茶を勧め、以前来たことがある人にも同じ様にお茶を勧めたのはなぜですか」と尋ねたところ、禅師は突然「院主さん」と呼びかけます。思わず「はい」と答えた院主に、やはり禅師は「喫茶去」とお茶を勧めたということです。
どのような答えに対しても「喫茶去」と応える禅師の、爽やかな境地に思いを致すべし、とも説かれます。しかし、この話の眼目は、禅師が突然「院主さん」と呼び、思わず院主が「はい」と答えたことであることは明らかです。院主は思弁の世界から呼び戻されて、ひとりの人間として禅師の前に立っている自分に気づきます。目の前にいる禅師もまた呼びかけたひとりの人間です。
哲学者の鷲田清一さんは『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)のなかで、人のために「なにかをしてあげる」という意識に絡めとられることの貧しさを語っています。
あるひとのためになにかを「してあげる」という意識のなかでは、自分と他者とは「施すひと」「施されるひと」とに転位され、それぞれが取り替えのきかない個別性を失って、匿名化してしまいます。「わたし」が存在するための前提である「あなたとわたしの関係」を、変形してしまうものとして「してあげる」という意識が現れるのです。「お茶をおあがり」の一言は、そのような変形される前の関係に、一気に引き戻してくれます。
鷲田清一さんは前掲書で、精神科医ロナルド・D・レインの破瓜型分裂病患者について触れています。その患者は、看護婦がなにげなく差し出した一杯のお茶に感動してこう言うのでした。
「だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれてはじめてです」
鷲田さんは、この患者の感動を次のように解説しています。
だれだってだれかのためにお茶をいれることはできる。しかしそれが、求められたからでなく、業務としてでもなく、もちろん茶碗を自慢するためでもなくて、「だれかのため」「なにかのため」という意識がまったくなしに、ただあるひとに一杯のお茶を供することにあって、そしてそれ以上でも以下でもないという事実は、それほどありふれたものではない。レインの患者はその事実に胸を熱くしたのである。(前掲書107頁)
話し声の途絶えた広間には、わたしが茶筅でお茶を撹拌する音が響き、同時にお茶の香りが広がっており、そこには、お正客の温かい視線が注がれていました。役割をはっきり決めている練習では決して味わうことのできない「ありふれたものではない」経験を、茶席では味わうことができました。