先日の茶道の稽古場の床柱に、小ぶりな備前の花入れに椿の蕾が入れられていました。
ちょうど寒波が押し寄せてきた時だったので、寒さに縮こまりながら、懸命に花を割かせようとする姿のようにも見えます。花入れの形は、人が膝を抱えてうずくまった形に見えるので「うずくまる」と呼ばれています。
初釜の際の写真を師匠にお見せしたとき、ご自身の背筋が伸びていないことをしきりに気にされていて、師匠一流の諧謔の意味も込めて「うずくまる」を選ばれたのかとも思い、微笑ましく感じました。
茶道具の簡素な形、静かな膚、くすめる色に「貧の心」を見たのは柳宗悦でした。「貧」のなかには余韻や暗示が含まれていて、それは「無限なるもの」への暗示でもあるのだと述べています。「うずくまる」の花入れを見ていると、そういった余韻に満ちた美しさとともに、すべてを包み込むようなおおらかさを感じます。
おおらかな美しさ、といえば千利休の孫宗旦に、こんな逸話があります。
京都正安寺の住職が、一輪見事に咲いた白玉椿の枝を、宗旦に贈ろうと小僧に持たせます。小僧は大事に花を抱えていたのですが、途中で石につまずいて転び、花を散らせてしまいます。小僧は泣きながら花びらを一枚一枚拾い上げ、これを懐紙に包んで宗旦のもとにとどけました。
懐紙に包まれた花びらと、葉だけ残った枝を受け取った宗旦は、小僧を叱りもせず、その労をねぎらって、駄賃を持たせて帰しました。
宗旦は花のない枝を床の間に生け、懐紙に包まれた花びらを、一枚一枚床の間に置いていくと、いままさに散り終えた白玉椿の姿が立ち現れたのだそうです。
このように意図したものでなくとも、時の経過とともに思わず床の間に花を散らせている姿を見ることがあります。そんな時には、型どおりに収まりきれない、いのちの働きのようなものが感じられて、見る者に解き放たれるような思いを抱かせます。
おおらかさは、何ものにも縛られない「いのちの働き」であり、柳宗悦の言う「無限なるもの」も、この「いのちの働き」によって呼び起こされるのではないか、と考えました。寒さに思わず「うずくまる」のもまた、いのちの働きです。