昨日まで庭に咲いていた秋明菊の花が褪せて行き、ホトトギスの花がひとつひとつ萎れて行く。昨日まで確かにあったものが無くなることを、小さな庭のなかで日々感じます。
ものの不在をたくみに詠んだ歌人が、藤原定家です。
駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ
この歌では、わざわざ馬をとめて、袖につもった雪を振り払う様がまず描かれます。大変な雪なのだろうと想像したところに、「陰もなし」と続きます。そんな人さえもいない、雪におおわれた夕暮れの景色だけが広がっているのです。一度イメージさせた「駒とめて袖うちはらふ」姿が消えないまま、そこにかぶさるように夕暮れの情景が詠われるので、寂しさがいっそう強調されることになります。定家はこの手法を用いて、ものごとの不在による寂しさを詠んでいます。
み渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ
瞬間的に想起させた花や紅葉の彩りが、直ちに「不在」となるレトリックによって物寂しい世界を演出しています。
このような定家の手法は、巧みさを感じさせるものではあっても、しかし、そこに描かれているのは端的な「不在」に留まります。
いまは不在となっても、自然は大きな循環のなかでやがて存在を取り戻しながら、わたしたちを大らかに包み込んでいました。
しかし、この大きな循環に身を任せていた世界は、どこか遠くに離れてしまったようにさえ感じます。
実際、コロナ禍で去年までの催物が取りやめになり、人生の節目の行事も思うに任せなかったひとは数知れません。取り返しがつかないように「ない」ことを、私たちは身近に経験してきました。
森田真生は前にも紹介した近著『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社)のなかで、環境哲学者ティモシー・モートンの詩のフレーズ「くり返しがないと想像してみよう」(imagine there’s no repetition) を引いて次のように述べます。
目の前でどれほど素晴らしいことが起きていたとしても、僕たちはそれが「二度と起きない」可能性をあまり考えようとはしない。友人との愉快な会話も、家族との何気ないひと時も、夕陽も、落ち葉も、庭に訪れる野鳥も‥…。すべては明日、来年、あるいはまたいつか、再びくり返すのではないかと信じているのだ。
だが「くり返しがないと想像してみよう」。落ち葉を踏む音、金木犀の香り、星空、秋の木漏れ日‥…。目の前にあるすべてが、二度とないと想像してみる。不在を想うことを通して、存在に触れるレッスンである。(138頁)
もしもなかったら、と想像してみることを、モートンは「引き算の想像力」と呼びます。
もしもなかったら、と想像することで、いまあるものの存在に思いを馳せることになります。ひいては、それを支えていたものに思いを致し、その支えていたものと自分とのかかわりにも思いは及んでいくことでしょう。
「こうやって世界とかかわっていこう」という態度へとつながるのだとすれば、それは世界を生きるレッスンなのだと思います。
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