上田秋成の『雨月物語』を口語新釈で読みました。絶版になった石川淳『新釈雨月物語』(角川文庫)をアマゾンで取り寄せたものです。そのなかの「貧福論」を読んで、しばし考えさせられました。大略、次のような話です。
蒲生氏郷に仕える武将、岡左内は、金銭にこだわる逸話で知られる奇人でした。自身は富に拘泥しつつも、蓄財に励む家来に褒美を与えるなどしたので、人気のある侍でもありました。
ある夜、左内の枕元に小さな金の精霊が現れ、次のように語ります。
金を卑しいものとして軽んずる世の傾向は嘆かわしいものだ。財を求めるこころをないがしろにして、名をのみ求めるひとは、ひととして賢ではあっても、ふるまいは賢ではない。名と財を求めるこころは、ふたつあるわけではないと。
我が意を得たと喜んだ左内が、精霊に貧富のことわりについて続けて尋ねます。
ご高説はその通りだと思うが、富める者の八割がたは慾深で慈悲のかけらもない人々である一方で、忠節孝行に励んでいても貧しいが故に不遇をかこつ人もいる。これは不条理だ。仏法では前世の報いがあると説くので、今世で報われなくとも来世で相応の報いがあると考えれば、いくらか納得もいくのだがと。
これに対して精霊は答えます。貧富は前世の因縁であるとか、天命であるとかの説は、たぶらかしの俗説である。金の精霊である私は非情の者であって、人の善悪に従ういわれはないので、はっきり言ってしまうが、金は金の道理で動くのだと。
精霊はまた、時代の勢力の動きを語り、豊臣の治世が長くないと予言しました。この訪問は左内に大きな影響を与えた、という話です。
一読して教訓を引き出すのが難しい話です。
精霊は、名と財を求めるこころは別のものではないと言いながら、財の道理は人の善悪の基準とは無関係に動くと語っているのが、話を分かりにくくしているのです。
そこで、こんな風に考えてみました。
左内という侍が、本当の金の亡者ならば、前世の因縁などという言葉をわざわざ持ち出して、みずからの悩みを吐露することはなかったはずです。だからこそ前世の因縁など迷信に惑わされていては「名と財」の両方を得るはずの、左内の心掛けは叶わないだろう、金の精霊としてはそう語ったのではないか。
かりに左内が、利己主義の限りを尽くしたセリフを吐いたなら、精霊は「自惚れることなく貴殿が人に慕われる理由について思いを致せ」と一喝したのではないか、とも思います。
そうだとすれば、金の精霊がわざわざ左内の枕元に現れたのは、こんな理由ではないか。すなわち、「名と財」で乱世を生き延びる極意は臨機応変に尽きる。金の精霊である私の、人を見て法を説く振る舞いから、学ぶべきは学べと伝えようとしたのではないかと。