石川淳著『新釈雨月物語』のなかで、印象に残った話をもうひとつ紹介します。「菊花の約(ちぎり)」は、おおむね次のような話です。
馬鹿正直を絵に描いたような学者、丈部左門は世渡り下手な人物でした。そんな左門が行き倒れになった病人を、流行り病だからよせと人が止めるのも聞かず、親身に看病します。病から回復した赤穴宗右衛門は優れた軍学者で、身を捨てて我が身を救ってくれた左門に恩義を感じ、左門も宗右衛門の博識人柄に惚れ込んで、二人は義兄弟となります。
宗右衛門は重陽の佳節には必ず戻ると約束をして、出雲に旅立ちますが、政争に巻き込まれて捕らえられてしまいます。これでは義兄弟との約束を果たせぬと考えた宗右衛門は自刃のすえ、重陽の節句の日に、亡霊となって左門と再会の約束を果たしました。
この事情を亡霊から聞いた左門は、宗右衛門の無念を晴らすため単身出雲に向かい、宗右衛門の仇を一刀のもとに切りすえ、みずからは姿を消します。
という話なのですが、約束を守り抜いた宗右衛門の立場も、友の仇を打つ左門の境遇もひたすら気の毒なだけのように映ります。左門が仇を討っても世の中は何も変わらないのですから。さすがに、乱世に咲いた義兄弟の花は眩しくはありますが、身の震える感動話とまでは言えません。
それでは何が読むひとの心を打つのでしょう。
文章の力だと私は思います。
例えば、宗右衛門が病が癒えるまで左門の家に長逗留する、こんなくだり。
きのうきょう咲いたと見えた尾上の花もすっかり散って、すず風に寄る波の、色にもしろき夏のはじめとはなった。
(石川淳『新釈雨月物語』)
きのふけふ咲きぬると見し尾上の花も散りはてて 涼しき風による浪に とはでもしろき夏の初になりぬ
(上田秋成『雨月物語』)
石川淳は、上田秋成の格調高い調べをそのまま活かしています。それは初夏の季節の移ろいを一息に感じる宗右衛門の魂の旋律でもあります。まさに言葉は言霊となり、宗右衛門の魂とともに、われわれのもとに届くのです。