5月末から6月にかけては3月期末の総会シーズンで、いろいろな組織の集まりに顔を出します。先日の集まりは、料亭の一室で会議をした後に、そのまま別室で懇親会を開催するというパターンでした。
仲居さんが手際よく靴を片づけるのですが、大勢で押しかけるので玄関に靴があふれることがあって、そんなとき不思議な感慨にとらわれます。ほとんどが年に一回だけ顔を合わせる間柄で、その疎遠な者たちの脱いだ靴が、仲良く並んでいるのは、何とも可笑しいのです。
詩人、小池昌子さんのエッセイ集『屋上への誘惑』(光文社文庫)に、ちょうどそんなことが書いてありました。
ジャズの集いのために、仲間たちがマンションの一室に集まったとき、玄関一杯に並べられた靴を見て、詩人はしみじみとこう述懐しています。
持ち主はそこにいないのに、靴の姿を見ているだけで、足の裏から順番に、履き手の顔までが想像される。
玄関で留守番している靴のおおかたは、くたびれて弱ったものたちである。
持ち主たちは、元気に飲みながら、笑いあっているけれど、魂のほうは、脱いだ靴のようにくたびれているのではないかしら。
私は玄関につったって、犬のように、なつかしい人間のにおいをかいだ。
私たちは、時間というものに触れない。けれど、ものたちが、時間の肌触りを、もの自身の表面に写しとって見せてくれることがある。たとえば、この、玄関の靴のように。
私たちは、過去の記憶を背負いながら、過去を引き伸ばしたり、縮ませたりして現在との縮尺の折り合いをつけて、時間を織り上げているのではないでしょうか。そうすると、くたびれた靴は、現在との折り合いを一時棚上げにしたように、そこに置かれている過去のようなものではないか、と考えたりします。
過去たちは、それぞれが棚上げした折り合いの付け方の、個々人の違いなどまるでなかったかのように仲良く並んでいます。そして来年、一層くたびれた過去が玄関先で並んでいるのを想像するのです。
「お疲れ様」という挨拶を外国人に向かってすると、タフを美徳とする外国人にとっては、失礼なのだと聞いたりします。けれども日本人にとって「お疲れ様」が温かなねぎらいの言葉であるのは、こうやって靴を脱ぐ文化、時間の肌触りを感じる文化があればこそ、なのだと思います。