犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

楽しい一年であるために

2025-01-01 22:33:40 | 日記

あけましておめでとうございます。
9連休のちょうど折り返し地点で新年を迎えることになりました。こんなに休んで大丈夫なのかという貧乏性が頭をもたげるのは、長い休暇によって、生活の質が上がるという実感を持ちにくいからではないでしょうか。玄侑宗久さんが語っていて、なるほどと思った話を思い出します。

わが国が西欧化の過程で余暇と休暇の概念を受け入れとき、同時に、労働は辛いものだから休暇が必要なのだ、という考え方も取り入れてしまいました。
日本古来の生活のリズムは、日常と祭によって刻まれていて、祭りのカタルシスのなかで日常の疲れも吹き飛んでしまう、というようにメリハリを付けていたのでした。とはいえ、常に祭りばかりをしているわけにはいかないので、仕事そのものをどれだけ遊びとして楽しめるか、という心構えで仕事に臨んでいたというのです。

祭りという横のつながりで生まれる楽しみを、日常に溶け込ませるものとしてあった仕事の楽しみが、近代化にともなって変質してしまいました。いまの我慢が先々報われるのだと、楽しみを将来に先送りしてしまうようになったのです。
そこで玄侑さんが提案するのは、今やっている仕事をいま楽しむことです。そのとき没入したことをよし、とすることができたなら、結果はどうでもいいとしてはどうかと。そうすることで、日々上機嫌に過ごすことができて、仕事の質も変わり、往々にして結果も伴いやすいというのです。「楽しいことをする」と考えるのではなく「することを楽しむ」と心掛けていれば、遊戯三昧の世界にも到達します。

日本人の労働観の変遷は、必ずしもこのようでなかったかもしれませんが、これは、玄侑宗久さんのよく生きるための「提言」のようなものだと捉えればよいと思います。
私自身振り返ってみて、茶道の稽古を今日まで続けられたのは、それが楽しいからというよりも、目の前の稽古を楽しもうと考えていたからだと思います。少なくとも、今我慢していれば、いずれ楽しいことがあると考えていたのならば、とうてい続かなかったでしょう。

いつまで続くか分からない心構えのようにも見えますが、中村天風はことあるごとに言っていました。
「人生は心ひとつの置きどころ」
正月から初めて、「今日することを楽しもう」と毎日思っていれば、楽しくない一年であるはずがないと思います。


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