花が咲くことについて、考えています。
詩人の吉野弘は、花が咲くためには一定期間の闇をくぐり抜ける必要があると言いました。ぬくぬくと栄養状態の良い環境で育てられて花をつけることをわすれた茶の木が、死期を前にして一斉に花を咲かせることも書いています。私はそれを、命懸けで生に向かい合おうとする力の表れとしてとらえました。
確かに、個体の限界を越えようとする花には、そういうガムシャラなところがあるのでしょう。
しかし、志村ふくみが菩薩のようだととらえた上村松園の描く女性を梅の花に重ねてみると、もっと静かに広がるようなものとして、花は咲くのではないかとも思います。
茨木のり子の詩に「汲む―Y・Yに―」というものがあり、ここに登場する花はまさにそういう存在です。
詩の味わいを殺してしまうのを恐れながら、ここに一部を抜粋します。
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
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年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
(『茨木のり子詩集 鎮魂歌』より)
咲きたての薔薇は「アンテナ」として、すべてのいい仕事を支えている。年老いてもなお咲くその薔薇は、背伸びをする若者を諭すように静かに咲いていました。それを戒めとして受けた若い詩人は、歳を重ねて、自分もその人と同じように花を咲かせようと思うのです。
命懸けで生に向かい合おうという姿が、花を咲かせることの一面ならば、せっかく命懸けで咲くのなら、より良く生きようと自戒する静かな一面を持っているのでしょう。震える弱いアンテナとして。