夏の時期の歌のなかで、気になってノートに書きつけていた一首に、しばらく目が止まりました。
秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
(堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』)
いっぱいに広げた両掌に秋茄子を乗せてかけてゆく少年、その茄子は陽に照らされて黒光りしており、走るにつれてずっしりと重みが伝わってきます。世界はこんなにも光と命に満ちているのに、どうしてすべてのものに死は訪れるのだろうと、少年はしばし走る足を止めます。夏の日の眩しい一瞬を切りとった一首という風に、勝手に想像を膨らませて読みました。
自分は間違いなく死んでいなくなり、その不思議さ恐ろしさを感じていることすらすっかり消え去って、まるで自分が生きていた事実が嘘だったように、自分の与り知らない世界は続いてゆく。この揺るぎない事実に初めて向き合って、ずっと塞ぎ込んでいたのは、私の場合、小学校三年生くらいのことだったでしょうか。
誰もが経験する自分自身の死との対面は、その後の人生の本当に重要な局面で、そのときの感覚のまま再現されるように思います。
そうしてみると、冒頭の歌は少年の歌ではなく、むしろ「送り火」の準備やなにかで秋茄子を手に取るとき、少年の日の「死との出会い」がフラッシュバックした様子を詠んだもの、と捉えた方が味わい深いものがあるように思います。少年の歌ならば、結句の「僕たちは」ではなく、たとえば「この僕は」となるのではないか、とも考えました。
「この僕は」を卒業して「僕たちは」と詠めるようになったとき、どうしようもない孤独が、むしろ孤独を埋めるような働きをすることを知るのだと思います。つまり大人になるのです。
少年はやがて「人生の一回性」などという便利な言葉で置き換えて、落ち着き払ったようでいて、実は少年の日の最初の恐れの感覚をごまかして澄まして生きているのだということに、人は魂の大切な局面で気がつきます。
誰にも代わってもらえない不安、代わってもらえないこと自体からくる不安は、共有できないが故に、深いところで人と繋がりうるということ。これを知ることで、人ははじめて本当に大人になるのではないかと思います。