犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

タペストリーを織る

2024-08-23 23:23:17 | 日記

詩人の茨木のり子が、今まで読んできた詩のなかで、一番好きな詩を一編挙げるとすると何になりますか、と聞かれて次の詩を思いついたと書いています。(茨木のり子 長谷川宏著『思索の淵にて』参照)

年をとる それは青春を
歳月のなかで組織することだ

     ポール・エリュアール(大岡信訳)

青春の爆発や戸惑いや絶望などが、ないまぜになって、つかみようもないものを「縦糸」として結び直し、あれは一体何だったんだろうと思いつつ、「横糸」を一日一日と織りなして、一枚のタペストリーを織り上げることが人生なのかもしれない、と茨木のり子は述べています。「青春を組織する」とはそういうことなのではないかと。

この言葉には、身につまされる思いがします。若い頃のどうしようもないこだわりや、取り返しのつかない失敗と、常に折り合いをつけて生きてきたという実感があるからです。

私は詩の冒頭の「年をとる」という言葉を、歳月を重ねるということではなく「老境を生きる」という風にとらえ直してみました。

そうすると、青春のなかの本当に強い「縦糸」だけが、記憶のなかに仕舞われていることに気付きます。あたためていた夢を諦めたこと、人を傷つけてしまったこと、そんな縦糸を「組織」するのは、ひとつひとつのやり場のない思いを「鎮める」ことではないかと思います。鎮めることが「横糸」なのではないだろうか、と。

鎮めると言えば大げさかもしれませんが、若い頃とうてい受け入れ難いと思っていたことなどが、最近、懐かしい思い出としてよみがえることがあるのです。
青春の縦糸は、「鎮める横糸」によってひとつひとつ丁寧に括られて、タペストリーの端を飾る、フリンジになるのではないでしょうか。

茨木のり子は、こんな風にも書いています。

どんな仕事であれ、若い日の憶いが高齢になるまでひとすじ、つながっている人のほうが、どちらかと言えば好ましい。
(前掲書)

人生の終わりにタペストリーが織り上がり、ひとすじ、つながった縦糸が、ひらひらと風にそよぐフリンジのように自由であれば、その人は美しい人生を全うしたと言えるように思います。


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