犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

対話の息づかい

2023-02-06 20:37:24 | 日記

学校、企業や自治体などを巡って哲学対話を行っている若い哲学研究者、永井玲衣の著書『水中の哲学者たち』(晶文社)を読みました。対話の場にのぞむ著者の息づかいが伝わってくる清々しい本です。
そのなかで考えさせられたエピソードを紹介します。

ある小学校で「死んだらどうなる」というテーマで対話をした時のこと、小学生たちは生まれ変わりについて議論をはじめ、やがて、生きるとは何か、どのように生きるべきかについても言及し始めます。そうやって議論がゆれているあいだ、じっと眉間にしわを寄せて考えていた女の子がこう発言したのだそうです。

みんなは、生きるということがメインで、そのために死んだり生まれ変わったりするって言っているような気がするんだけれど、そもそも、生まれ変わるということ自体が目的で、そのために死んだり生きてるだけだったらどうする?(36頁)

これは対話なかの誰も考えたことのない論点で、こういう発言が著者の想像を刺激するのです。まるで魂だけになった存在が、風呂上がりのビールを飲み干すひとときに無上の幸せを感じる姿のようで、「生まれ変わること」だけが目的だとするのも、面白い考え方ではないかと。
むろん、著者はそれが正解だと言うのではなく、そうやって相手の言葉がするりと自分のなかに入ってきて、自分自身を揺るがすような経験をこそ愛するのです。

私自身、吉野弘の詩集『花と木のうた』を読んで、花が咲くことについて思いをはせていたので、生きることのなかで花を咲かせる意味を考えるのではなく、たとえば花を咲かせることが目的で、そのために死んだり生きたりしていると考えてみるのも、面白いと思いました。

本書のなかで、「対話」というものについて、バスに飛び乗ろうとする人と、それを引き上げようとする乗客の例をひいて、著者は次のように述べています。

対話というのはおそろしい行為だ。他者に何かを伝えようとすることは、離れた相手のところまで勢いをつけて跳ぶようなものだ。たっぷりと助走をつけて、勢いよくジャンプしないと相手には届かない。あなたとわたしの間には、大きくて深い隔たりがある。だから、他者に何かを伝えることはリスクでもある。跳躍の失敗は、そのまま転倒を意味する。ということは、他者に何かを伝えようとそもそもしなければ、硬い地面に身体を打ちつけられこともない。もしくは、せっかく手を差し伸べてくれた相手を、うっかりバスから引き倒して傷つけてしまうこともない。バスに向けて走るわたしに、誰が手を差し伸べてくれるだろうか。(30頁)

バスに向けて両手をひろげる姿も、その手を引き上げようとする姿も、私にはどちらも植物が懸命に花を咲かせる姿に重なります。花を咲かせて離れた相手にジャンプするのです。そうしてみると、花を咲かせることから振り返って、そこから死んだり生きたりすることを考えるというのも、荒唐無稽なだけのアイデアではないと思えてきます。

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