玄侑宗久の最近著『華厳という見方』(ケイオス出版)を読みました。
ロシアのウクライナ侵攻、米中対立など世界情勢が一気にきな臭くなり、世界は「覇権主義」に覆い尽くされているように見える。自らの影響力を拡大するために、弱い立場のものを蹂躙するのが覇権主義ならば、我々の思考も同じような病に取り憑かれているのではないか、と著者は言います。過去のデータを入れると簡単に未来がシミュレートできるような単純な因果関係で物事を考えて、偶然性を排除しようとする。その結果、他者の痛みを顧みる余裕さえなくなってしまっているのでは、と。
戦後間もない時期に、鈴木大拙が昭和天皇皇后両陛下の前で「華厳経」のご進講をしたのが、覇権主義への猛烈な反省とそこからの離脱の道を「華厳」に見出したからではないかとして、本書は論を進めます。
ここで本書で述べられる「華厳」について詳しく触れるのは避けますが、おおまかに述べてしまうと、自他の隔てがなく命が通い合うような状態のことを指しています。蓮の花の中にカメラを入れると、日の光が花びらを透かして入ってきて、光の中に溶け合ったような印象を受ける、そういう遍く一切を照らす光に包まれるイメージです。
本書のなかで最も印象に残ったエピソードは、民俗学者の宮本常一の『忘れられた日本人』について触れた箇所でした。考え方の違う者どうしがいて、理詰めで反対意見を折伏しようとしても上手くいくはずがありません。ここに描かれた村里の寄り合いでは、自説の優位を主張して相手を説得しようとするのではなく、時間をかけて意見を集約させる知恵がありました。
対馬の伊奈村で、宮本常一が民俗学の研究のために、ある資料を借りたいと申し出たときのこと、村長が自分の一存では決められないからといって、各地から区長のような人たちを船で集めます。この人たちがご飯も食べずに、延々と議論を重ねるのだそうです。ここでは『忘れられた日本人』の記述が面白いので、そちらを引用します。
気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花が咲くというのはこういう事なのであろう。(中略)
そういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。(『忘れられた日本人』岩波文庫)
ここで「たとえ話に事よせて話す」というのが面白いところです。その人がそう判断得ざるを得なかった背景も含めて頭の中に描いてみる事で、相手を言いくるめようという姿勢からいったん自由になり、思考を泳がせることができます。そうやって思考を泳がせているうちに、自分と他者との隔たりが溶け始め、この辺りならば仕方がないかという合意点が形成されるのでしょう。
『忘れられた日本人』に描かれた里村の人々は、生来の温厚さからこのような話し合いの仕方を選んだのではないはずです。他者を足蹴にしたり、逆に傷つけられたりした、苦い経験をあまりにも重ねてきたために、戒めの気持ちとともにこのような話し合いを選び取ったのではないでしょうか。そういう知恵が「忘れられ」ているのなら、それは退歩の道を突き進んでいることだと思います。