花浄土鹿児島

鹿児島の花や風景、祭りなどを巡るブログです。
(季節の花、吹上浜、桜島、霧島など)

鹿児島の大雪 三八豪雪の思い出 2025/01/12(鹿児島)

2025-01-14 21:18:29 | 思い出
今日は雪にならず一時小雨ですが、たまに思い出すのは1963年(昭和38年)の大雪です。

1月10日朝の雪 屋根にうっすら積もっただけ


昭和38年1月豪雪は、1962年(昭和37年)12月末から1963年(昭和38年)2月初めまで、約1か月にわたり北陸地方を中心に東北地方から九州にかけての広い範囲で起こった雪害(豪雪)。三八豪雪(さんぱちごうせつ)などとも呼ばれる。(Wikipediaから引用)

今年は昭和で数えると昭和100年、昭和38年は62年も前のことです。
初めて聞いた方もあるでしょうが、鹿児島に豪雪とは何かの間違いのような?

当時私は日吉町立日置小学校の5年生で、一か月ほども屋根に雪が残っていたことを覚えています。

鹿児島でそんなことがあったの? 
この冬と当時の気象データを基にしてグラフを作りました。

まずは この冬の様子 11月から1月10日まで 鹿児島の最低気温


昨年は記録的な猛暑が続き、11月も一時的に気温が平年を下回る日があった程度で秋を感じられないほどでした。

12月になると冬らしくなり、これまでの高温傾向とのギャップが大きく、寒さに慣れるのが大変でした。

12月9日は鹿児島(鹿児島市の気象台所在地)で初霜と初氷を観測しています。12月28日には桜島の初冠雪が観測され、年明けの9日夜には鹿児島で初雪が降りました。

2023.11~1月まで 鹿児島の観測値 旬別に平年値と比較


1月10日 道路沿い草むらの雪


昭和38年(1963年)の冬


前年の12月から昭和38年3月までの鹿児島の平均気温と降水量です。1月の大半で平均気温が5度未満となっています。

1~2月を拡大すると


平均気温が10度を超えた日は一日だけで、期間中の大部分で雨や雪が降っています。

最高気温と最低気温を見ると


雨や雪の日が続き最高気温が10度以下の日が多く、最低気温がマイナスの日が半分ほどです。南国鹿児島では、昨年の猛暑よりもひどい異常気象でした。

今季も寒いものの、鹿児島ではまだ最低気温がマイナスになっていません。気象台が1994年(平成6年)2月、海に近い現在地に移転したことにより、観測される最低気温は1~2度高めになっているように感じます。

2023/01/25 雪の朝 バス通りの様子


雪の降り方はどうだったか


降雪観測値では降雪が1センチ未満の日もありますが、グラフでは表示されていません。鹿児島の積雪は1月24日に24cm、25日に15cm、31日には14cmでした。
気温の低い日が続いたことで雪がなかなか溶けず、一ヶ月ほども残りました。

阿久根市では25日に28cmの降雪があり、史上最高の積雪38cmを記録。枕崎市では25〜26日に33cmの降雪があり、26日に史上最高の積雪26cmを記録。(Wikipedia)

私の記憶では日吉町日置で30cm程度でしたが、祖父の話では昔も雪が多く積もったことはあるが、一月近くも雪が残ったのは珍しいと言っていました。

昭和38年(1963)は高度経済成長期(1955~1973頃)に入っていましたが、鹿児島ではまだ戦後を引きずっているような時代でした。ようやく一部で石油ストーブが普及し始めた程度でした。

私の家では暖房はもっぱら火鉢の炭火か、掘り炬燵でした。当時は台風が来ると数日間停電するのが当たり前で、積雪で停電したのかは記憶がありません。

影響が大きかったのは屋根で、雪の重みで瓦がずり下がって左官さんは大忙しでした。

2024/01/24 雪の朝 バス通りの様子


まだテレビは普及しておらず、情報は有線放送で流れるラジオ放送程度。電話のある家は集落に一軒あるかどうか、個人で車を持っている人はいませんでした。

殆どの子供たちは霜焼けや赤切れに悩まされ、学校の教室内に暖房は一切なかったと思います。雪の朝は授業前に雪合戦や校庭を走り回って体を温めていました。

給食の牛乳は脱脂粉乳で、冷えると表面に膜が張り付き不味いものでした。中学に入ると瓶入りの牛乳になってホッとしました。

令和の時代にこのような大雪が降れば、日常生活に大きな影響が出ることでしょう。2月までは寒い日が続きますので、皆様ご自愛ください。
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花野町内会 鬼火焚き 2025/01/12(鹿児島)

2025-01-14 20:39:58 | 祭り・伝統行事
1月12日(日)昼間の小雨が上がり、夕方には鬼火焚きがありました。

1月7日の様子 鹿児島市岡之原町 花野地区の水田


昭和の頃の鬼火焚きは子供たちが中心になって孟宗竹で櫓を組み、正月明けの門松などの飾りも一緒に焼いて、一年の健康や豊作などを願う行事でした。

現在は地域の団体が主体となり、多くの人が集まる大掛かりな櫓も見かけます。夜間開催が主ですが、かつては昼間や朝方開催の所もありました。

壮年~高齢者主体で準備を行い、鬼火焚き当日に地域住民が参加する形が多いようです。

7日開催が多いので出かけましたが、案内板には12日(日)18時半点火とありました。

7日 門松が持ち込まれていた


7日夕方には田んぼの櫓に、近所の人たちが門松や正月飾りが持ち込んでいました。

12日18時3分 今夜が本番 以下の画像は12日に撮影


日没は17時34分、車に積まれた発電機で灯りが付けられています。まだ人は少なく関係者が準備をすませて時間待ちの状態でした。

道路から田んぼに下りる坂道には、竹の小さな灯篭が並んでいました。

田圃で、ぜんざいが振舞われたころもありましたが、コロナ禍以降は取り止めになったようです。

18時23分 暗くなって月が目立つ


今日は旧暦の12月13日、月齢は12.2、満月は14日です。見た目には真ん丸で雨上がりの空にスッキリと目に付きました。

昼間に小雨が降ったこともあり、今年は人の集まりが少し遅いようでした。

18時30分 すぐに火は櫓の上に


予定通りの点火でしたが、1分もかからず櫓の上にまで火が駈け上りました。例年櫓が組まれるのは12月下旬で、その後雨が少なかったのでよく乾燥していたようです。

18時32分 火の勢いが一番強い時間帯


風が弱く火柱は真上に伸び、竹がはじける音が響き渡りました。火の粉が風に流されることもなく見事でした。

何度か鬼火焚きを見ていますが、よく乾燥しているとごく短時間で炎の状態は最高潮に達するため、撮影ポイントを変えたい場合は素早い移動が肝心です。

観客の塊の中にいると移動が難しいので、あらかじめ移動経路や足元を確かめておくと安心です。

今回は撮影時のカメラブレを最小化するため、三脚を使い足元はゴム長靴にしました。水田は軽く耕されていて足がめり込んだので、ゴム長靴が正解でした。

18時34分 火の粉は少なくなったが火の勢いは良い


笹や木の葉などが燃え尽きたのか火の粉が少なくなりました。炎は勢いの良い状態が続いていますが、勢いのある炎の表情変化が、見た目ほどには写っていません。

夜なのでカメラの感度を上げてもシャッター速度が早くできず、あれこれ設定ダイヤルを回しながら写すうちにはピンボケ画像も多く、炎の色もまちまちになっていました。

撮影直後の画像を見ながら、シャッター速度、感度、絞り、明るさの調整などするのですが・・・火の勢いが良いうちに一枚でも多く写すために、各種設定の良し悪しを考えることよりも・・・とにかくシャッターを押すことを優先しました。

18時38分 火の勢いが安定してきた


この時間帯が一番観客も多く、火の勢いも良いようでした。次々に変化する炎の表情を捉えるべく何枚も写しましたが、どれも似たようなもので今一つでした。

18時41分 道路側の高い位置から撮影


火の勢いが落ち着いてきて周囲に積まれていた枯木や、正月飾りなどを投げ入れる様子が見えました。

18時43分 いつの間にか観客が少なくなった


周囲の燃え残りを中に移して少しずつ片付けていく段階です。一部では竹の先に餅をつけて焼くような様子もありました。

点火から13分、まだ周囲には準備された竹や枯枝、藁の束が残っていました。
少しずつ炎の勢いが弱まりますが、安全にすべて燃やして片付が終わるまでには相当な時間がかかりそうです。

毎年素晴らしい伝統行事を見せてくださる花野町内会の方々には感謝、感謝です。インフルエンザに気をつけて、今年も元気で過ごしましょう。
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ヘビ年 扇尾にある蛇の窟 2025/01/07(鹿児島)

2025-01-14 20:27:53 | 自然観察
1月7日(火)深古院の後は永吉川の自然地形「蛇の窟」に行きました。

日置市日吉町吉利の扇尾小学校跡 以下の画像は1月7日撮影


深固院跡から南東へ500mほど進むと扇尾小学校跡(2016年3月閉校)があり、現在は鹿児島ジビエ研究所「REIBIG JAPANレイビッグジャパン」(イノシシ肉などの食肉卸売業)になっています。画面外右手には扇尾保育園があります。

ここの駐車区画に車を止めて蛇の窟(じゃのあな)を目指します。ヘビ年の話題として、日置市のインスタグラムで存在を知りました。

小さな案内板が3か所ほどある


県道36号永吉入佐線を横断して永吉川にかかる小さな橋を渡ります。意外と車が多く、スピードが出ているので道路横断には注意しましょう。

この案内板から蛇の窟までは300m程度です。

草刈・倒木処理がされた通路 車両通行はできません


民家横にある案内板に従って、狭い道を永吉川左岸の上流方向へ進みます。

地元の方々が荒れていた通路の草刈、倒木片付けをされて昔ながらの田圃道がよみがえりました。

窟(あな)が見えてきた


杉林に沿って5分程度歩くと窟らしきものが見えてきました。もっと大きなものを想像していたので、いささか拍子抜けでした。

雄大な自然風景を期待する方は、ガッカリされるかも知れません。人物を配置して撮影すれば、窟の形や大きさが判りやすいと思います。

私は吹上浜近くに生まれ育ち、このような自然に接することが今でも好きです。

蛇の窟 案内板


大蛇の化身とされる美女の言い伝えには、深固院と永吉川河口の久多島神社が登場します。

崩れたシラス斜面には小さな鳥居が倒れていて、かつては神様が祀られていたようです。

西側(下流側)から見た 蛇の窟


崩れたシラスの小山から写したものです。西側の崖は大雨時には表面が洗い流されるようなシラス崖で、植物は殆ど生えていません。

窟の上部は雑木林で周辺に見られる杉の植林はありません。高さは3メートルから10メートル、幅10メートルから15メートル、奥行きは15メートルほどです。

東側(上流側)から見た 蛇の窟


こちら側は日当たりが良いためかシラス崖の表面にシダが生えていて、西側とは少し趣が違います。

きれいに残っている稲作の道具  


上流部は耕作放棄されてかなり年数が過ぎた水田跡のようでした。グーグルマップの航空写真を見ると広さは30~50アール程度でしょうか。

大きなトンネル下は農作業用具を置くには都合が良かったのでしょう。掛け干しの支柱や藁が整然と積まれ、一輪車や梯子も残されていて、農家さんの苦労がしのばれます。

帰りに気付いたのですが、窟の西側には1~2軒の廃屋跡がありました。上流部水田の耕作農家だったかも知れません。

永吉川右岸側から見た蛇の窟 左側が上流部


県道側の水田から見るとシラス崖というよりは、シラスが固くなった岩山のように見えました。

シラス崖の柔らかい部分で川による浸食が進み、長い年月のうちに自然に窟(トンネル)が形成されたのではないでしょうか。

川床などは整備されていて、浸食防止のコンクリート壁があり、水中には石を詰めた籠が並んでいました。

県道側から見た蛇の窟


右側の丸い山のようなところに蛇の窟があります。農地拡大のために自然窟の先に(左手、上流側)水田を開墾したのでしょう。

手前(永吉川北岸側)の水田は広さがあり、県道のすぐ横で便利な場所です。

今回整備された通路も夏草が茂れば、蛇や虫などが出そうで心配です。見学には冬から春先が良さそうです。

どなたにでもおススメできる場所ではありませんが、駐車場から歩いて8分ほど。道も判りやすく、小学校社会科の見学で訪れるには良さそうな場所でした。幼いころの体験は故郷の思い出になることでしょう。

地元テレビ局KKBで『巳年・ヘビ年で話題 日置市民話に伝わる「ヘビの穴」』としてニュース報道(動画あり)されています。
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日吉町扇尾 乳地蔵と深固院跡 2025/01/07(鹿児島)

2025-01-14 19:56:51 | 史跡巡り
1月7日(火)野菜園など掃除して、帰り道に扇尾へ向かいました。

道沿いにある乳地蔵 以下の画像は1月7日に撮影


グーグルマップで気付き、機会を見て訪れたいと思っていました。

伊集院に向かう途中の住吉地区毘沙門自然の森公園脇を南へ進むと、扇尾小学校跡の750mほど手前の道路左手にありました。

乳地蔵の案内板


ここに参拝すると母乳が豊富に出ると言い伝えられているお地蔵様です。

様々な石仏や石塔の欠片を集めた感じ


明治初期の廃仏毀釈で壊された仏像や石塔、墓石などの欠片を集めたのでしょうか。風化が進んでいることもあり、お地蔵様のように見えるのは一部に感じられました。

10mほど北側にも小さな石仏があった


最近では管理する人もないようで、花などは見当たりませんでした。

深固院跡入口


乳地蔵から東側へ100mほどの位置には深固院跡の大きな案内板がありました。

加世田、吹上方面から鹿児島へ通じる県道35号永吉入佐線を利用することはあっても、扇尾~毘沙門を通ることは殆どありませんでした。

看板には深固団子発祥の地、幽遠山深固院跡と書かれており、平成2年度の村づくりパワーアップ事業とありました。

広場と建物があった


少し上がると農村広場の様なところがあり、地域振興のために駐車場と建物が整備されたのでしょう。

平成2年は1990年、今から35年も前のことですが当時は公共事業に勢いのあった頃で懐かしい時代でした。

現在では簡単に造れそうもない施設です。後に「失われた10年」などと言われる時代が始まった頃です。

その後も日本経済は横ばいが続き「失われた20年」とも言われ、今に至っている感じもします。

しんこ団子の由来など 建物壁の案内板


この寺跡は深固団子(しんこだんご)発祥の地とされ、毎年11月の祭りでは団子販売と地元の演芸が披露され多くの人で賑わっていたようです。

広場の左手に残る墓地


広場左手には壊された仁王像や石仏が残され、墓石のようなものもありました。

山手の竹林内にも小さな石塔のようなものが


孟宗竹が茂っていますが、地元の方々が年間を通じて管理されているようです。孟宗竹は太くて長いため、片付けや管理は大変な作業です。

破損していないように見えるが


全体に苔むしていますが、細かく見ると頭部は後で作り直されたような感じもありました。

こちらは墓石でしょうか


雲の切れ間から日差しが差し込んできました。右側の破損したようなものは何でしょうか。

和尚さんの墓石


こちらには花が手向けられており、大切な和尚さんの墓石のようです。

静かな場所であるだけに、今も残る廃仏毀釈の惨状に胸が痛みます。

短時間を過ごし今日の目的地「蛇の窟」(じゃのあな)に向かいましたが、時期を見て再訪したいものです。
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寒い日 野菜園仕事始め 2025/01/07(鹿児島)

2025-01-14 18:43:16 | 野菜作り
1月7日(火)時雨模様の中、野菜園の様子見に日置へ向かいました。

9時38分 吹上浜日置海岸 以下の画像は1月7日に撮影


4日まで晴天続きの穏やかな年明けでしたが、今日は時雨模様となり伊集院辺りでは少しアラレも降りました。

7日の鹿児島の最低気温は4.2度、最高気温は10度。海は風が強く荒れていましたが北側に一人だけ釣り人がいました。

昨年夏から留まる大きな流木


昨年は全般に海が穏やかで、梅雨の頃に漂着した大きな流木が北側へ50m程度動いただけで居座っています。

庭先の落葉


前回は12月21日でしたから半月以上が過ぎ、その後の冷え込みで白木蓮の葉が全部散っていました。

掃除で気分がスッキリ


熊手を使って掃除するとスッキリ、時雨模様で雨樋に詰まった枯葉も気になり脚立を伸ばして取り除きました。

放置しても特に問題はないのですが、やはり気持ちがスッキリして良いものです。

野菜園にも落葉が一杯


えんどう豆を植えている東側区画です。冷え込んだ割に雑草が枯れることはなく、かなり伸びて落葉もだいぶ積もっていました。

落葉がすぐに肥料になれば良いですが、耕作には邪魔なので近いうちに片付けたいものです。

成長が遅い えんどう豆


まだ20センチ程度しか伸びておらず、支柱に絡まずに倒れ込んだものもあります。

今後は支柱を増やし、全体をしっかりと枠で囲って鳥除けネットを掛けなおす予定です。寒さが厳しい2月中旬頃までは伸びない方が、寒さの被害を受けにくく好都合です。

大根 今日は3本収穫


間隔を広げるために発芽直後に動かした大根は先端部が分かれたものが多く、成長も少し遅れています。

自家用なので見た目は問題なく、昔の大根のように春先に塔立ちすることもなく育てやすくて助かります。

熊手を使い落葉掃除


簡単に腐らず肥料になりそうもないイチョウの落葉があり掃除しました。

春先までの課題は、野菜園の周辺から入り込んでいる茅を取り除くことです。深さ50センチほどの範囲で竹のように地下茎を伸ばして増殖が早く、放置するとこの夏は草原になりそうです。

時雨模様のため 今日は早めに作業切り上げ


晩生ミカンが一つだけ落ちていました。本来の収穫期は6~7月なのでまだ酸味が強く甘味はなさそうです。

こちらも放置できない 竹との戦い


実家の東側に竹林があり、地下茎が庭先にまで広がってきています。

冬のこの時期に芽を伸ばしていたことは驚きです。目に付いたら山鍬で取り除いていますが、深いところに伸びている地下茎を取り除かないとイタチごっこが続くだけです。

春先までには可能な範囲で地下茎を取り除く予定ですが、地表部には樹木があるため掘り下げることが難しく、確実に取り除けるのは庭先のごく一部です。

放置すると半年もせず庭先は竹林になりそうで、元気なうちは小まめに管理を続けたいものです。

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2025初詣 泥のなかの蓮 2025/01/02(鹿児島)

2025-01-14 18:26:16 | 日記
成人式も終わり早や1月半ば、gooネット障害がようやく復旧しました。

私だけ回復が遅かったのかもしれませんが、1月2日以降の分を順次投稿しますので、よろしくお願いします。

1月2日(木)鹿児島市の照国神社と西本願寺鹿児島別院に初詣をしました。

朝方は健康の森公園へ 以下の画像は1月2日に撮影


パパイヤの木から植え替えられた大きな鉢には、正月飾りがありました。

今朝の日の出 見に来た人は数組だけ


初日の出は多くの人でしたが今日は2日目、数組の方が日の出を待っていました。
昨日以上に冷え込んで背中に当たる風が冷たい朝でした。

午後は照国神社に向かう


雲一つない穏やかな日で多くの人が神社へ向かっていました。今年も川内議員が新年のあいさつをしていました。

裏金問題が大きく影響した自民党が参議院選挙で勢力を維持できるのか、あるいは衆参同日選挙か先がはっきり見えません。

待ち時間は例年よりも短め


コロナ禍が一段落してインフルエンザが流行していますが、マスク姿の人は半分程度でした。以前ほど小まめな行列規制はなく、列に並んで15分ほどで参拝できました。

本殿の西隣にある末社 保食(うけもち)神社(照国稲荷)


いつも目に入るだけで通り過ぎていましたが、参拝する人を見かけて私も参拝しました。穀物が豊かに稔るようにお守り下さる神様です。

青空の東には桜島の薄煙


参拝の列が長くなる様子はなく、人の流れは順調に見えました。2日の鹿児島は最低気温3.5度、最高気温16.4度、日中は風も弱く穏やかでした。

西本願寺鹿児島別院 池坊(池坊中央研修学院)


例年とは少し趣の違う簡素で力強い生け花でした。

池坊 副総華督 林 幾代(高千穂支部)

山形屋に展示の生け花 鹿児島県連合華道会 常設華席


山形屋正面玄関を入ったすぐ右手に飾られていて、いつも楽しみな生け花です。

花題 凛と輝く 流派 心潮派(宮原眞由美、古城幸枝、樺山陽子)
花材 マツ、ウメ、ヤナギ、イチリンギク、コギク、センリョウ、ツツジ
花器 銅器

老舗の和菓子店 明石屋本店


父親と同じく街中に出た時は明石屋さんに立ち寄っています。体が弱く全く酒が飲めない父が好きだった小豆菓子を買い、仏前に供えました。

山形屋は昨年から経営再建中 人通りの減った周辺商店街


かつては年末年始には先へ進めないほど多くの人で賑わうところでしたが、ここ数年人通りがかなり減少しています。

若い人たちは鹿児島中央駅のアミュプラザや東開町のイオンモール鹿児島などの利用が多く、山形屋周辺では閉まっている店が多く見られ先行きが危ぶまれています。

金子みすゞさんの詩 西本願寺鹿児島別院 お寺の掲示板


郵便局側の長い塀の角にある掲示板です。同様の掲示板はお寺入口、鐘撞堂横にもあり、大きな文字で判りやすい言葉などが貼りだされています。
金子みすゞさんの詩の一節が書かれていました。

「蓮と鶏」という詩の一部で、全体は次のとおりです。

泥のなかから蓮が咲く。  それをするのは蓮じゃない。
卵のなかから鶏が出る。  それをするのは鶏じゃない。
それに私は気がついた。  それも私のせいじゃない。

言葉の味わい・左側の解説には次のとおり書かれていました。

「泥からハスが咲くのは、ハスを咲かせる働きがあるからです。私たちは何かにつけて自分の力を慢心しがちですが、多くのおかげさまがあって、生かされているのです。」

金子みすゞさんは有名な詩人ですが・・・「わたしと小鳥とすずと」の一節・・・みんな違ってみんないい・・・という言葉が思い浮かびます。

詩の内容など調べていくと・・・結婚後に家庭内の不幸が重なり、わずか26歳で自ら命を絶ったことが判り、悲しくなりました。

中央公園 元気な子供たちの姿が


神社に向かう時にはまだ人が少なかったのですが、天気の良い中でボール遊びが始まり、自転車で走り回る子もいて、元気な声が響き渡っていました。

過疎高齢化が進む鹿児島ですが、初日の出に続き初詣でも子供連れの若い人たちを多く目にして頼もしいことでした。

地球温暖化がさらに進んで今年も猛暑になるのか、何よりも自分たちが元気で過ごすことが一番。大切な日々を無駄なく過ごしたいものです。
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花浄土/鹿児島

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