6月12日(日)今朝のサンデーモーニングで国会の話題がありました。
ブログ後半では戦後の不信任案可決と衆議院解散についても記載しました。
以下の画像は6月12日放送のサンデーモーニングから引用
TBSテレビ日曜朝の長寿番組です。司会の関口さんの後ろに飾られた季節の花が楽しみで毎週見ています。
不信任決議案の話題 6月9日(木)
次は内閣不信任決議案
夏の盆踊りのようなもの
投票の様子
記名投票
不信任決議案は2つとも自民党などの反対多数で否決されたと報道されました。
いつもの疑問が・・・なぜ投票結果が具体的に報道されないのか
1 公式記録がすぐに発表されないので、議長発言に沿って報道
2 いつも否決されるので、詳しく報道する価値がない
3 武士の情けで、勝ち負けをあからさまに数値で示さない
6月12日に検索した衆議院ホームページに以下の記録がありました。
衆議院議長細田博之君不信任決議案(馬淵澄夫君外二名提出)
右議案は、委員会の審査を省略して議事日程に追加するに決し、これを議題とし、提出者岡本あき子君の趣旨弁明があって討論の後、記名投票をもって採決の結果、賛成一〇五、反対二八八で否決した。
内閣不信任決議案についても次の記録がありました。
岸田内閣不信任決議案(西村智奈美君外二名提出)
右議案は、委員会の審査を省略して議事日程に追加するに決し、これを議題とし、提出者泉健太君の趣旨弁明があって討論の後、記名投票をもって採決の結果、賛成一〇六、反対三四六で否決した。
私の推測した1~3の理由により具体的な数値結果までは出していないような気がしますが、どうでしょうか。
次回同じようなことがあれば、日を置かず衆議院のホームページを検索してみたいものです。
不信任決議案可決と衆議院解散について
NHK政治マガジン ねほりはほり聞いて(政治の言葉)から引用
内閣不信任決議案は内閣が信任できないとする衆議院の意思を表明する議案で、衆議院議員51人以上の賛同があれば提出できます。
決議案が、衆議院本会議で、出席議員の過半数で可決されると、内閣は、10日以内に衆議院を解散するか、総辞職しなければならないと憲法で規定されています。
戦後、内閣不信任決議が可決されたのは、
▼1948年(昭和23年)の第2次吉田内閣、
▼1953年(昭和28年)の第4次吉田内閣、
▼1980年(昭和55年)の第2次大平内閣、
▼1993年(平成5年)の宮沢内閣の4回です。
いずれも不信任決議を受けて、衆議院が解散されました。(引用終わり)
ワンマン宰相と呼ばれた吉田内閣の解散は「馴れ合い解散」、「バカヤロー解散」と言われるものでした。
1993年(平成5年)宮沢内閣の解散は「嘘つき解散」と言われ、自民党が分裂し羽田孜・小沢一郎派などが不信任案に賛成。
不信任案は可決され選挙結果は自民党が大敗し下野。細川護煕氏を首相とする8党派連立政権が誕生しました。
鹿児島市では平静5年8月6日に豪雨災害が発生、細川首相が防災服ではなく平服で被災地見舞いに来られた姿が新鮮でよく記憶しています。
もっと強いインパクトがあったのは1980年(昭和55年)の第2次大平内閣での解散でした。
自民党内の内輪揉めで三木派や福田派など69人は議決を欠席してしまい、内閣不信任案は賛成243票・反対187票でまさかの可決。
異例の衆参同時選挙となりました。しかも選挙期間中に大平首相は急死、一転して弔い合戦となり自民党が大勝しています。
その年は前年(1979)に起きたソ連のアフガニスタン侵攻に反発して、アメリカなどとともに日本もモスクワ五輪をボイコット。柔道の山下選手の涙を覚えています。
ロシアのウクライナ侵攻を思わせますが、イラク戦争を経てアフガニスタンに介入したアメリカも痛い目に遭い、撤退に失敗したのはごく最近のことです。
平成後半から日本でも戦後という言葉が聞かれなくなりましたが、改めていろんなことが起こっていたのだと感じます。
来月の参議院選挙はロシアのウクライナ侵攻を受けて、国防に対する国民の意識が変化し与党に追い風が吹き、盆踊りのように今度も不信任案を提出した野党には辛いことでしょう。
ブログ後半では戦後の不信任案可決と衆議院解散についても記載しました。
以下の画像は6月12日放送のサンデーモーニングから引用
TBSテレビ日曜朝の長寿番組です。司会の関口さんの後ろに飾られた季節の花が楽しみで毎週見ています。
不信任決議案の話題 6月9日(木)
次は内閣不信任決議案
夏の盆踊りのようなもの
投票の様子
記名投票
不信任決議案は2つとも自民党などの反対多数で否決されたと報道されました。
いつもの疑問が・・・なぜ投票結果が具体的に報道されないのか
1 公式記録がすぐに発表されないので、議長発言に沿って報道
2 いつも否決されるので、詳しく報道する価値がない
3 武士の情けで、勝ち負けをあからさまに数値で示さない
6月12日に検索した衆議院ホームページに以下の記録がありました。
衆議院議長細田博之君不信任決議案(馬淵澄夫君外二名提出)
右議案は、委員会の審査を省略して議事日程に追加するに決し、これを議題とし、提出者岡本あき子君の趣旨弁明があって討論の後、記名投票をもって採決の結果、賛成一〇五、反対二八八で否決した。
内閣不信任決議案についても次の記録がありました。
岸田内閣不信任決議案(西村智奈美君外二名提出)
右議案は、委員会の審査を省略して議事日程に追加するに決し、これを議題とし、提出者泉健太君の趣旨弁明があって討論の後、記名投票をもって採決の結果、賛成一〇六、反対三四六で否決した。
私の推測した1~3の理由により具体的な数値結果までは出していないような気がしますが、どうでしょうか。
次回同じようなことがあれば、日を置かず衆議院のホームページを検索してみたいものです。
不信任決議案可決と衆議院解散について
NHK政治マガジン ねほりはほり聞いて(政治の言葉)から引用
内閣不信任決議案は内閣が信任できないとする衆議院の意思を表明する議案で、衆議院議員51人以上の賛同があれば提出できます。
決議案が、衆議院本会議で、出席議員の過半数で可決されると、内閣は、10日以内に衆議院を解散するか、総辞職しなければならないと憲法で規定されています。
戦後、内閣不信任決議が可決されたのは、
▼1948年(昭和23年)の第2次吉田内閣、
▼1953年(昭和28年)の第4次吉田内閣、
▼1980年(昭和55年)の第2次大平内閣、
▼1993年(平成5年)の宮沢内閣の4回です。
いずれも不信任決議を受けて、衆議院が解散されました。(引用終わり)
ワンマン宰相と呼ばれた吉田内閣の解散は「馴れ合い解散」、「バカヤロー解散」と言われるものでした。
1993年(平成5年)宮沢内閣の解散は「嘘つき解散」と言われ、自民党が分裂し羽田孜・小沢一郎派などが不信任案に賛成。
不信任案は可決され選挙結果は自民党が大敗し下野。細川護煕氏を首相とする8党派連立政権が誕生しました。
鹿児島市では平静5年8月6日に豪雨災害が発生、細川首相が防災服ではなく平服で被災地見舞いに来られた姿が新鮮でよく記憶しています。
もっと強いインパクトがあったのは1980年(昭和55年)の第2次大平内閣での解散でした。
自民党内の内輪揉めで三木派や福田派など69人は議決を欠席してしまい、内閣不信任案は賛成243票・反対187票でまさかの可決。
異例の衆参同時選挙となりました。しかも選挙期間中に大平首相は急死、一転して弔い合戦となり自民党が大勝しています。
その年は前年(1979)に起きたソ連のアフガニスタン侵攻に反発して、アメリカなどとともに日本もモスクワ五輪をボイコット。柔道の山下選手の涙を覚えています。
ロシアのウクライナ侵攻を思わせますが、イラク戦争を経てアフガニスタンに介入したアメリカも痛い目に遭い、撤退に失敗したのはごく最近のことです。
平成後半から日本でも戦後という言葉が聞かれなくなりましたが、改めていろんなことが起こっていたのだと感じます。
来月の参議院選挙はロシアのウクライナ侵攻を受けて、国防に対する国民の意識が変化し与党に追い風が吹き、盆踊りのように今度も不信任案を提出した野党には辛いことでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます