2012年夏から始めた300坪の畑ナッピバル(私の命名)、時間と金をたっぷり注ぎ込んだ5年半が過ぎて、もう辞めようとしている。経済的な収穫はほとんど無く、精神的には敗北感と自己嫌悪と大反省という収穫を得た。我ながら情けない。
「俺は1人で生きていける、俺は金も地位も名誉も無いが偉いのだ」と思い込んでいた傲慢さと、「俺の感性は面白い、俺の生き方は正しいのだ」という独善的性格が生んだ結果だ。そんな己のバカさ加減に対しては反省してもしきれない。
してもしきれない反省をしている中、父や母のことが何度も脳裏に浮かんだ。母は2007年10月に、父は2010年5月に亡くなっている。そして、してもしきれない反省をしている中、私はやっと父の気持が想像できるようになった。
父は50歳頃に脳梗塞で倒れ、命は取り留めたが体の右半身が不自由となった。父は頑張り屋だった。その後、懸命に頑張って、動かなかった右半身が動くようになり、普通に歩けるようになり、ほどなく職場復帰した。その後も筋力トレーニングに励んで、定年後は姪の小さな畑に通って野良仕事をし、普通に生活していた。
歳取って畑に通うことができなくなったあとも、ウォーキング、筋力トレーニングは続けて、母とケンカをしながら、愛を感じながら楽しく過ごしていたであろう。
しかし、母が亡くなった後、一人暮らしとなってからは・・・、
不自由な体で1人で生きていくには何かと不便があったであろうと、バカ息子の私は今になって思う。しだいに筋力も衰える、自分で食事が作れない、髭も上手く剃れない、そんな年老いて行く自分に大きな不安を持っていたであろう。
妻が亡くなった後、バカ息子(私)は一緒に住んでくれない、広い家にたった1人、そんな暮らしに深い淋しさを感じ、誰かが傍にいてくれることを望んだであろう。
母が亡くなった後の1年半ほど、私は時々実家に通って父にパソコンを教え、パソコンでワードを教え、自伝を書かせていた。手指の運動、脳の運動にもなると思って。
それはそれで、父も喜んではいてくれたと思う。しかし、私の「時々」は月に1~2回に過ぎない。父の淋しさを、その時の私はちっとも感じていなかった。
「何で、銀行でお金をおろすために俺を呼ぶんだよー」と文句を言い、洗面台の片付けしながら「何で、こんなに剃刀がいっぱいなんだ!要らないだろ?」などと、私は父に文句を言っていた。そんな時、父は元気に言い返すこともあったが、淋しそうに笑っているだけのこともあった。銀行でお金をおろすことも父には不安があり、効き手の右手が不自由なので、左手でも上手く剃れる剃刀をあれこれ買って試していたのだろう。
そういうことも思いやれずに当時の私は、父を半分バカにしたような扱いをしていたわけだ。ごく最近までの私も、父の悲しみや淋しさにほとんど無関心であった。
父の(母も)ことをあれこれ想うようになったのは、自分が腰痛となり、将来に不安を感じ、「生きるのに不自由を感じながらの一人暮らし」を想像したからだ。「我が身をつねられて人の痛さを知る」みたいなものだ。他人の悲しみや淋しさを理解するということを私はこれまで怠っていたような気がする。これが今回の大反省の1つ。
記:2018.1.12 島乃ガジ丸
うろ覚えなので正確ではないかもしれないが、徳川家康の言葉で「人生は重き荷を負うて長き道を歩くが如し」というのがあった。「人生を生き抜くには努力や忍耐といった生きる力が必要である」ということではないか、と私は捉えている。
今年(2017年)9月3日、旧盆の初日、我が家の位牌を預けてある寺へ行きウンケー(御迎え)の行事をし、同じフロアーにある従姉の実家の仏壇を覗く。従姉はご先祖を大事にし、何かの行事には欠かさずお参りしている。沖縄の行事に精通しており、旧盆の飾りつけは毎年立派にやっている。ところが今年は何もやっていない。メールすると、脚を骨折して入院中との返信。入院は2~3ヶ月続きそうとのこと。
12月22日、冬至の日、沖縄ではトゥンジー(冬至)ジューシー(雑炊)なる炊き込みご飯を仏前に供える慣わしがある。その日、時間を合わせ、従姉と久々に会った。
「2週間前には退院して1週間前からは車の運転もしている」
「俺は腰痛になって、畑も諦めようかと考えている」などと、しばらくはお互いの近況を語り合い、親戚の誰それはどうしている?などの話も済んだ後、「実はね・・・」と、ちょっと真面目な顔になって、彼女は語る。
「この半年、私、大変だったのよ・・・」と切り出して、夫に膵臓癌が見つかり、手術する前に脳梗塞で倒れ、生死の境を彷徨い、命は取り留めたが半身不随となり、膵臓癌の手術は延期され続け、大学病院へ移り、手術して貰い、それは成功した。
「そんなこんなで忙しくて、私は疲労骨折してしまったさぁ」とのこと。
「夫は癌の転移があり、半身不随も続いている。だけどね、話ができるようになって、意思の疎通はできている。それはとても嬉しいこと」と、少し涙声になる。私も歳取って涙脆くなっているので、思わず貰い泣きしそうであった。
話し終わると彼女はいつもの笑顔になって、お供えしたものを下げて、「これ食べなさい、これも食べなさい」と、いつものカメーカメー(噛め噛め:沖縄語で食べなさい食べなさいという意)おばさんに戻った。苦難は続いているだろうに明るい人である。
私の腰痛は大したことない、背中を反らすような格好になると強い痛みが走るが、ただ座っている立っているだけでは痛みはない。しばらく立っていると腰が少し痛くて尻から脚にかけて時々痺れもあるのだが、歩けないほどではない。たとえ完治しなくても、腰に負担のかかるような動きをしなければ普通に生きて行けると思われる。その程度の腰痛で私は、「このままでは歩けなくなるかもしれない、将来が不安だ、畑仕事を辞めよう」なんて弱音を吐いている。従姉の苦難に比べれば屁みたいなものなのに。
翌土曜日、久々、半年ぶりくらいに模合(モアイ:相互扶助的飲み会)へ参加した。久々の友人達の顔を見て心癒される。家のローンが残っているなど、それぞれに重き荷があるだろうけど、みんな笑顔であった。その笑顔に癒された。
重き荷、内容はいろいろあるだろうけど、それを負って人は生きていく。私の周りには重き荷を笑顔で負っている人が多くいる。「みんな頑張っているんだなぁ」と改めて思った。私に重き荷はあるか?と問えば、無い。だから、考えが甘いのかもしれない。
記:2017.12.29 島乃ガジ丸
腰痛で元気に動けなくて、このところボーっとしていることが多い。ボーっとしていると妄想する、元気な時の妄想はたいてい楽しい内容だが、最近の妄想は悲観的である。我が身を省みて「俺の生き方はこれでいいのか?」と柄にもなく考えてしまう。
「これでいいのか?」と問い、「これでいいのだ。」とこれまでは答え、「何とかなるさ、明日は明日の風が吹くさ」とテキトーに生きてきたこれまでの人生。体が弱って心も弱っている最近は、これまでのあれこれを思い出しては反省ばかりしている。
今の住まいは平屋の一軒家で2世帯が住める形になっている。その内の1世帯が大家さんで、残る1世帯が私。大家さんは私より年上の女性、親切な人で最初から仲良くしてくれた。手料理や、市販の食べ物飲み物をくれた。私も大家さんを招いて挽きたてコーヒーを出したり、縁側に2人腰掛け、七輪でイカを焼き日本酒を御馳走したりした。
大家と店子の関係は、私としては顔を合わせば挨拶し、たまに(週一くらい)10~20分ほどのユンタク(おしゃべり)をする仲で良かろうという感じ、これまで住んでいたアパートでも、そこの大家さんとは概ねそんな間柄であった。ところが、今の大家さんは距離が近い。一時期は毎日のようにドアのチャイムを鳴らした。「これ食べて」、「これ飲んで」といった差し入れが多い。一人であることが好きな私はついに、腹を立てつつ言葉は穏やかに、「揚物、スナック菓子はあまり食べない、昼寝している時は起こされたくない、疲れているので早く休みたい」などの理由を付けて差し入れを断った。
それでも大家さんはいろいろ持ってきた。先月(11月)からは私も諦めて、差し入れの品を頂いたら「ありがとうございます」と冷たく言って、さっさとドアを閉めるようにしていた。あれこれ断る理由を探すのも面倒臭くなってしまっていた。
12月15日、午後3時頃から甥と一緒だった。我が家の墓やトートーメー(位牌)など、これからのあれこれを話し合い、夕方からは私の家で酒を酌み交わしながら、なおもあれこれ話し合い、夜には友人のO夫妻も来てくれ、楽しい飲み会となった。
みんなが帰った(午後10時頃)後、私はこれまでに無い深い孤独を感じた。「寂しいとはこういうことなのか?しかし、甥や友人が来てくれたじゃないか、何でだ?」と考えた。考えて、「夫婦、親子のような深い関わりが、私には無いからか?」と思う。
「一人で生きていけるさ」と私は自信を持っていた。なので、嫌だなぁと思う人と付き合うことは時間の無駄とまで思っていた。嫌だなぁという感情が大きくなると、その人を無視することになる。無視って・・・最悪の虐めじゃないかとその時気付いた。
私の最近の大家さんに対する態度は無視と言える。言葉を交わすことさえ面倒臭がっている。それは「消え去れ」と思っているようなもの。そう思われる人は悲しかろう。
無視するというのは、自分の心からその人を抹殺することではないかと思う。「それはいかんだろう、俺は間違っていたかも」と反省(いつまで続くか?)する。
そう反省し、過去のあれこれを後悔しつつほとんど眠れない夜を過ごした翌朝、昨夜の楽しい飲み会を思い出し、「いいさ、楽しければいいさ。過去は過去、何とかなるさ」と吹っ切って元気が戻る。でも、無視は今後あまりしないようにしようと、このいい加減で傲慢な私が殊勝にも思った朝であった。でも、殊勝がいつまで続くか自信は無い。
記:2017.12.21 島乃ガジ丸
10月に入ってからだと覚えているが、近所のスーパーの店員が三角錐の形をした帽子を被るようになった。「何それ?」と訊くと、「ハローウィンの格好です」と答えた。ハローウィンについては「何それ?」と訊くまでもなく、仮装する日だと何となく知っている。10月31日だったか、ラジオから「今日はハローウィン」といろんな番組から何度も聞こえた。それを聞きながら、私が青年の頃はそんな祭りなかったぞ、いつからか?ここ4、5年か?などと考えながら、もう1つのお祭りのことも思い浮んだ。
もう1つのお祭りとはバレンタインデー、これも私が子供の頃まではさほどメジャーでは無かったように覚えている。高校生の頃になって、女子から男子へチョコレートを贈るなんてことが、私とは離れた所であったという噂は聞いていた。
子供の頃から甘いものがあまり好きでなかった私だが、チョコレートは好きであった。子供の頃に食べたチョコレートで覚えているものがある。今でもあるかどうか不明だが、当時、ウィスキーボンボンと呼んでいた。ウィスキーボンボンは広辞苑に記載があり「結晶化させた砂糖でウィスキーを包んだ一口大のボンボン」のこと。ボンボンはフランス語で、同じく広辞苑に「キャンデーの一種。外側を糖製品で包んだ中にリキュール・果汁などを入れた一口大のもの。さらにチョコレートで包んだものもある」とあった。
子供の頃から甘いものがあまり好きでなかった私だが、和菓子は好きであった。大人になるとチョコレートはあまり食わなくなったが、大人になっても和菓子(餅菓子も含め)は好んで食べている。そこで、酒大好きオジサンである私は1つアイデアが浮かんだ。ウィスキーボンボンを包んだ餅菓子があれば、さぞ旨かろうと考えた。食べて酔う、まさに酒好きの食い物である、通の餅なので酔通餅(ようつうもち)と名付けたい。
畑仕事をしながら時々歌が出てくる。歌は頭の中で流れることが多いが、たまには口からハミングとして出てきたり、覚えているものはちゃんと歌ったりしている。
今年(2017年)の夏からある替え歌の替え歌がよく出てくるようになった。替え歌は、タイトルは覚えていないが、1番の歌詞は確か「1月は正月で酒が飲めるぞ、酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞ」であった。その元歌は『ビビデバビデブー』、ある映画の挿入歌であったことは覚えているが、何の映画だったかはよく覚えていない。
それはともかく、私の思い付いた替え歌の替え歌は、
京子は遊び過ぎて腰が痛ぇぞ 腰が痛ぇ痛ぇぞ 腰が痛ぇぞ
敬子はギックリ腰で腰が痛ぇぞ 腰が痛ぇ痛ぇぞ 腰が痛ぇぞ
詠子は太り過ぎで腰が痛ぇぞ 腰が痛ぇ痛ぇぞ 腰が痛ぇぞ
葉子は年を取って腰が痛ぇぞ 腰が痛ぇ痛ぇぞ 腰が痛ぇぞ
誰もがみんな腰が痛ぇぞ 腰が痛ぇ痛ぇぞ 腰が痛ぇぞ
といったもの。ちなみに、女性の名前が出てくるが、いずれも実在の人物ではない。
それはともかく、私は今、酷い腰痛である。10月下旬からほぼ毎日ストレッチをやっているが、一向に良くならない。私はもはや、腰痛持ちのオッサンとなってしまったようだ。「腰痛持ちか」と溜息つきながら、「美味しいかも」と酔通餅を思い付いた。
記:2017.11.24 島乃ガジ丸
沖縄は11月でも蚊がいる。寒くなると少なくはなるが12月も1月も2月もいる。亜熱帯の沖縄では年中蚊がいる。11月はまだ暖かいので夏と同じ位に蚊がわんさかいる。ということで、畑では蚊取り線香がほぼ年中の必需品となっている。
10月30日、畑の蚊取り線香が無くなりそう(残り4日分位)になっていたので、買いに行った。畑からは寄り道になるが、私がポイントカードを持っているBスーパーが5%割引の特別な日だったので行く。この際だからと、日持ちのするレトルト食品やお菓子なども買おうと店に入る。レトルト食品やお菓子は買ったが、蚊取り線香を忘れる。
11月1日、畑の蚊取り線香が無くなりそう(残り2日分位)になっていたので、同じくBスーパーへ買いに行った。「蚊取り線香だけを買うのに寄り道するのは嫌だなぁ、何か他に買う物無いかなぁ」と考えて、「しょうがない、今日は休肝日の予定だったが何か肴になるようなもの買って、今日も飲む日とするか」となって、寄り道のスーパーへ寄って肴をいくつか買い、家に帰る。蚊取り線香を買い忘れたことに、酒飲んで、肴を全部食い終わって、そろそろ寝るかとなって歯磨きをしようと思った時に気付いた。
話は少し飛ぶが、4、5日前のこと、50歳までに1度も結婚の経験が無い比率、男性では沖縄が1番高いとラジオのニュースで言っていた。私の友人達にもその高い比率に貢献している者がいる、OR、ZY、TTなどの顔が思い浮んだ。私も貢献者の1人。
私としては、1人暮らしに不自由は無い、料理はできるし、掃除洗濯も苦ではない。それに私は1人でいることを好む煩がり屋である。そんな私のような偏屈者に結婚は必要ないのではないかと思う。ただしかし、「結婚しなさい」という世間の圧力、親、親戚の圧力は理解できる。少子化対策とか、家系の存続とかであろう。
そしてもう1つ、老後の生活を考慮すれば、結婚して子を成し育て、その子が子を成し孫ができる、などといったことは現在の、年金とかの社会保障が不備であった時代には必要だったのであろう、子が年老いた親の面倒を見ることが必要だったのであろう。
それを踏まえて、結婚する理由と、私が結婚できなかった理由を考えてみた。
1、老いた時に面倒を見て貰う為に結婚し、子を成す。
2、恋に落ちて、何も考えずに事を成し、できちゃった結婚となる。
3、この人を守ってあげたい、一生一緒にいたいと思って結婚する。
私の場合、1については、全く考えに無かった。2については、恋に落ちた相手にはことごとく振られているので、できなかった。3については、後から思えば、そういう人がいたのだが、気付くのが遅れた。ということで、私は結婚を逃してきたと思われる。
何で今更そんなこと考えるのかと言うと、上述したように、私は年々忘れ物が酷くなっている。この先さらに酷くなって、財布を落としたり、オレオレ詐欺に引っ掛かったり、火を消し忘れたり、親しい友人や近い親戚の顔を忘れたり、帰る家を忘れたりするかもしれない。独居老人(将来の私)は、無意識に世間に迷惑を掛けるかもしれない。
さらに、このところの腰痛で体力にも不安が出てきた。屈んだ姿勢から立ち上がった時によろけることもたまにある。いつか、散歩の途中で道に倒れるかもしれない。道に倒れて誰かの名を呼び続け・・・ることができないかもしれない。誰も覚えていないので。
記:2017.11.17 島乃ガジ丸