ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

天啓の音楽、人間の音楽

2013年08月02日 | 通信-音楽・映画

 先週、「なんくるみー畑」の話を書いて、静岡のまり子さんのことを思い出して、久々に彼女のブログを覗いた。去年は4コママンガを多く載せているが、今年は1つの記事しかない。彼女はブログより先端をいくツイッターに移行しているみたいであった。
 まり子さんを思い出したついでに鈴木亜紀も思い出した。鈴木亜紀はシンガーソングライターピアノ弾きで、一時私が惚れた女性。で、彼女のHPも久々に覗いてみた。彼女もツイッターをやっているようだが、ブログはこれまでと変わりなく時々更新されている。これまでと変わりなく貧乏暮らしのようだが、お元気そうで何より。

  私が鈴木亜紀に惚れていた、というのはホント。彼女のどこに惚れたか?・・・彼女は見た目可愛いけれど美人というほどでは無い。深く長く話をしたことがないので彼女の性格が良いということも言えない。もっとも、私は見た目で女に惚れる男だと思っている。見た目はでも、美人かどうか、おっぱいが大きいかどうかなどでは無く。大雑把にいえば表情。表情は澄ました顔でも笑い顔でもその人の心を表現していると思う。なので、深く長く話をしたことがなくてもその人の性格に惚れるという可能性は十分にある。
 しかし、私が鈴木亜紀のどこに惚れたかはたぶん、ここであろうと判っている。彼女に惚れたのは彼女のライブを初めて聴いた時だ。私は見た目(可愛いけど)では無く、彼女の歌に惚れている。「こんな詩を書いて、こんな曲をつけて、こんな風に歌う人は間違いなくイイ女である。稀に見るイイ女である」と思ったのだ。で、惚れた。
          

  去年の秋、鈴木亜紀のライブが実家の近くのライブハウスであった。そのライブハウスの前を通りかかった時に私はそれを知った。が、だいぶ迷ったけれど、ライブには行かなかった。その年の夏に仕事が休職となり、収入源を失くした私は生活費削減中で、ライブを聴く金を惜しんだのであった。ちなみに、生活費削減は、30年以上続けてきた模合(モアイ:月1回の飲み会)を辞める、ビールが発泡酒になる、髪にも洗濯物にもリンスを使わない、総菜は3割引き~半額になってから買うなどといったもの。
 そういえば、6月にはEPOのライブもあった。EPOについては2007年8月のガジ丸通信に書いている。彼女の音楽の事を私は「まどろみ音楽」とし、「スグレモン」と評価している。そのEPOのライブ、しかも、EPOが沖縄に移住しての初ライブだ。沖縄に住んで生まれたEPOの音楽、とても興味を持ったが、やはり行かなかった。
          

  私は音楽を正式に勉強したわけでは無いので、学問的にあれこれ評価することはできない。私の言うことはまったく私の勝手な感性による、と言い訳して勝手なことを言うが、EPOの音楽は「天啓の音楽」、鈴木亜紀の音楽を「人間の音楽」と捉えている。
 「天啓の音楽」は精神が聴き、「人間の音楽」は心が聴く、と前置きしてさらに生意気なことを言わせて貰うと、私の感性によれば、「天啓の音楽」はモーツァルト、「人間の音楽」はベートーヴェンである。どちらの音楽も私は好きである。
 EPOのまどろみ音楽を聴いた時、彼女に「抱かれたい」気がした。鈴木亜紀のある1曲を聴いた時、彼女を「抱きしめたい」と思った。つまり、「抱かれたい」EPOは「天啓の音楽」で、「抱きしめたい」亜紀は「人間の音楽」となる。私の場合、だ。
          

 記:2013.8.2 島乃ガジ丸


表情の力

2013年07月12日 | 通信-音楽・映画

 山口百恵ファン、・・・私の事では無い。芸能人の誰かのファンになったことはあまり記憶にない。私が少年だった頃はアイドル花盛りで、古い順に言うと南沙織、天地真理、山口百恵、キャンディーズ、ピンクレディー、他たくさんのアイドルがいたが誰のファンにもなっていない。部屋にポスターを貼ったことはある。河合その子。当時私は可愛くておっぱいの大きい女が好きであった。もちろん、大人になってからは違う。
 山口百恵ファンは、誰と特定はできないが、宜野湾市立図書館創立の頃、所蔵ビデオを選択する権限のあった誰か。宜野湾市立図書館には山口百恵主演(相手役は概ね現夫の三浦友和)のビデオがたくさんある。百恵主演映画全集みたいなのがある。

 私は恋愛映画を好まない、テレビドラマも恋愛ものはほとんど観ていない。オジサンと呼ばれる歳になって以降で私が観たテレビドラマと言えば朝ドラ『ちゅらさん』と大河ドラマ『新撰組』くらいだ。赤い何とかの頃の山口百恵主演のドラマも観ていないし、トレンディードラマと言われるものも観ていない。誰もが知っている「男女七人・・・」や、武田鉄也が「僕は死にましぇん!」と叫んだドラマも観ていない。それらの一部のシーンをテレビのバラエティー番組か何かで観て知っているだけ。
 私が恋愛映画及びドラマを好まないのは、「好きだ」、「私もよ」と言って抱き合うのを見て、「俺もあんなことしたい」と羨んで、あんなことできない自分を憐れんで、惨めな気分になるからでは無い。チクショーと思うことは、若い頃はあったかもしれないが、オジサンと呼ばれる年齢になって以降はほとんど無い。自分の恋愛(あったとして)には深い関心があるが、他人の恋愛なぞにはまったく興味が無いだけである。

  山口百恵ファンでは無いが、先日、宜野湾市立図書館にある山口百恵主演の映画を1本借りて、観た。数ある山口百恵主演映画の多くは有名な文芸作品を映画化したもので、その中のいくつかは、私が文学少年だった頃に読んでいたもの。文芸作品をどう映像化しているのかに興味があって、試しにと1本、借りた。作品名は『古都』。
 山口百恵ファンでは無いので彼女が出てくるだけで嬉しいことは無く、上手い女優だとも思っていないので期待してはいなかったのだが、これがまあまあ面白く、「へぇー、上手い女優だったんだ」と彼女に対する評価が変わった。
          

 それからしばらくして、宜野湾市民図書館にあった『アニメ文学館 春琴抄、他1本』を借りて観た。これは、つまらなかった。何故私がつまらないと感じたかについてはすぐに判った。絵がつまらないのだ。絵が表現する表情がつまらない。
 私の部屋にはプリントものだが、有名画家の肖像画が2枚飾ってある。ゴヤとマチス、どちらも少女の絵。美人だからという理由では全然無い。私はその表情に惚れてその2枚を飾っている。良い肖像画は一瞬の表情に深みがある。観ていて飽きない。
 お口直しと思い、『アニメ文学館』をさっさと返して、百恵主演の『伊豆の踊子』を借りた。しかし、これはつまらなかった。百恵の表情が下手だと感じた。それは何故か?と考えた。調べると、『伊豆の踊子』は百恵主演の最初の作品で、『古都』は最後の作品であった。6年の経験が百恵の表情に深みを与えたのではないかと思う。
          

 記:2013.7.12 島乃ガジ丸


結婚は幸せ、という幻想

2013年05月17日 | 通信-音楽・映画

 先日、お見合いがあった、・・・私のでは無く、埼玉在の友人Kの見合い。二ヶ月ほど前に、私の友人の元美人妻Iさんに頼んで相手を探して貰っていた。
  Kはたびたび沖縄に来ていて、だいぶ前にIさんを紹介していて、その後も何度か顔を合わせ、話もしている。その経験を踏まえた結果、Iさんの目にKは男として合格だったようで、「Kさんならいいですよ、紹介できる女性がいますよ」となった。
 Kが今年1月に来沖した時、私とは会わず、「今回は先輩のAさんと過ごす予定」となった。Aさんから「女性を紹介する」との話があり、その餌に釣られたようだ。Aさんが紹介する女性というのは私も知っている美女Sさん。
 その時はSさんの都合が合わず、会うことは叶わなかった。それをKがとても残念がっていたので、「結婚したいの?」と訊くと、「したい」と答える。で、それではとIさんに打診してみたら、「いいですよ、いますよ」となったのだ。

 Kの友人で東京在のI氏、たびたび沖縄にやってきて私も何度か会い、私の友人にもなってくれているが、彼も、前回(今年3月)やってきた時に訊いたら「結婚したい」と言っていた。今さら子作りも難しかろうに何のための結婚だろうと私は思うのだが、人の感性は人それぞれなので、二人が結婚できることを祈っている。
 幸いにも、元美女IさんがKに紹介した女性は二人いて、I氏が夏に来沖(予定)する際はKも一緒に来て、その女性二人と食事することになっているらしい。上手い具合に二人が別の人を好きになって、めでたしめでたしになるといいね。
          

  4月に宜野湾市民図書館から『恋と花火と観覧車』という邦画のビデオを借りて観た。私は恋愛ものを好まないのだが、主演が長塚京三だったので渋めのものだなと判断し、借りた。主演女優は松嶋菜々子、秋元康企画原作で1997年の作品。
 映画の内容は妻に先立たれた中年男の恋愛物語。長塚京三は愛を叫ぶことも無く、泣くことも無く、歌うことも無く、彼と松嶋菜々子の恋愛は渋めに進んで行く。渋めは期待通りであったが、やはり、私には恋愛物語は向かないようで、退屈であった。
 長塚京三と松嶋菜々子の恋愛がどうなるのかについてはあまり興味がなかったが、脇役たちの動きには「ほう、そう動くのか、何故?」と面白く思う所があった。

 娘が勝手に父親を結婚相談所みたいな所へ入会させる。余計なお世話だと私は思うが、彼女はそれが正しいと信じている。お見合いパーティーの席でモテナイ男役の生瀬勝久が松嶋菜々子に「あんたみたいな美人が・・・云々」と暴言を吐く。若い美人がお見合いパーティーに参加しても、それは彼女の勝手だろう、要らぬお節介だと私は思う。
 余計なお世話、要らぬお節介をするのは、結婚は幸せという幻想を持っているからであろうと想像する。私だって恋人は欲しい。少なくとも、親しく話の出来る異性はいて欲しいと思う。それでもだ、中年(KもI氏も私ももうすぐ老年)の結婚は幸せか?というと疑問がある。生活の半分を相手に合わせなければならない。今さら面倒である。
 そんな面倒を負うてもなお、「この女と一緒にいたい」と思う女性に巡り会えたならそれはとても幸せなことかもしれない。KもI氏もそうなるといいね。
          

 記:2013.5.17 島乃ガジ丸


戦うウチナーンチュ

2013年04月05日 | 通信-音楽・映画

 雨の日にもやることがあり、晴れた日は畑が忙しい。そのため映画を観に行こうなどと思う余裕も無い。であったが、2月に1本観た。埼玉の友人Kから桜坂劇場の只券を貰ったからだ。観たいと思う映画をやっていた。以前観た映画『ラブ沖縄』、その続編。
  続編の『ラブ沖縄』、大半は前作のあらすじで、それにオスプレイ反対運動が加わったものであった。結果の見えない、というか、巨大な力にいずれ押し切られるであろうという憂鬱感が残ったが、ライオンに立ち向かう子羊たちの姿に胸が熱くなった。平和と安全のために戦っている人達がいる。ウセーられている(バカにされているという意のウチナーグチ)沖縄人の怒りを体を張って叫んでいる人達がいる。
 そう、沖縄は米国、及び日本政府にウセーられているのだ。「嫌だ」と言っているのにオスプレイを配備され、「ならば夜間飛行はしないなどの運行ルールは守ってくれ」と言っても米軍は無視し、日本政府は「ルール違反の明確な証拠が無い」と逃げる。それは逃げながら、辺野古の基地建設や高江のヘリパッド建設は断固進めようとする。まったく、沖縄人は嫌なもの押し付けても許される人種とでも思っているのだろうか。
          

  映画館へ映画を観に行く余裕は無いが、その代わり、近く(徒歩3分)の図書館からビデオやDVDを借りての映画は最近よく観ている。古い(戦前から戦後すぐの頃)邦画、私が若い頃の名作映画、最近の邦画などを観ている。今年三ヶ月間で18本の映画を観ているが、その中で2度繰り返して観た作品が一つだけある。『カメジロー』。
 戦後、沖縄のために闘い続け、米国から嫌われ、市民から愛され、沖縄で最も信念と気概と愛のある政治家、瀬長亀次郎。映画『カメジロー』はその瀬長亀次郎の半生を描いた半ドキュメンタリー。亀次郎を津嘉山正種が演じているが、亀次郎本人も古いフィルムの中に何度も出てくる。その顔、私もよく覚えている愛すべき顔。

 私は正義というものを子供の頃に「鉄腕アトム」などから学んでいるが、中学生になって映画が好きになって、特に西部劇が好きになって、正義というものをジョン・ウェインやジェームズ・スチュワートなどから学んだ。で、「アメリカは正義の国なんだ」と思い込んでしまった。「いや、そりゃちょっと違うみたいだぞ」と思うようになったのは沖縄の祖国復帰後、私が少し政治にも興味を持つようになった浪人生の頃になる。
 少なくとも沖縄では、アメリカはスーパーマンやポパイのような正義の人では無い。ジョン・ウェインやジェームズ・スチュワートが言っていた「ジャスティス」を沖縄には持って来ていない。もちろん、沖縄にいた(あるいは、いる)全てのアメリカ人がそうだとは言わないが、彼らは子供の頃に正義を学ばなかったのかもしれない。

 映画『カメジロー』には、軍用地に関する(土地強制収用など)あれこれでの米軍の傲慢な行いや、米軍人が沖縄の少女を強姦殺人したこと、それでも罰せらないなどといった事が映される。それらは私も知識として知ってはいたが、改めて怒りがこみ上げる。
 当時、アメリカはウチナーンチュを虫けら扱いしていた。ウチナーンチュはしかし、闘った。そのお陰で現状は当時より良くなっていると思う。でも、まだ舐められている。正義のジョン・ウェインは最後には勝つ。沖縄もそうなってくれることを願う。
          

 記:2013.4.5 島乃ガジ丸


関わりのある幸せ

2013年01月18日 | 通信-音楽・映画

 ここ数ヶ月、図書館からビデオやDVDを借りてよく観ている。最近は天気の悪い日が多く、そんな日は畑仕事を早く切り上げるので時間に余裕があり、ただいたい週に3、4本は観ている。観ている作品は大きく分けて2種類、沖縄芝居と日本の古い映画。
  沖縄芝居はウチナーグチ(沖縄口語)の勉強のため、勉強になっているかどうかについては、後日報告する。日本の古い映画は、図書館にその類のビデオが多くあるから、という理由もあるが、古き良き時代の日本を確認したかったから。
 「古い映画」と書いたが、観たビデオはだいたい1960年頃の作品、戦後15年を経ている。『下町の太陽』、『キューポラのある町』、『青い山脈』、『名も無く貧しく美しく』など。貧しかったけれど小さな幸せがそこここにあった頃のお話。
          

 私の今住んでいるアパートは琉球大学の近くにあり、住んでいる住人は大学生が多い。賃貸契約する時に「向こう三軒両隣に挨拶した方がいいですよね」と不動産屋に訊いた。前のアパートに越した時はそれが当然だと思って、アパートの他の住人に手土産を携えて挨拶したが、今の若者にそういう習慣があるかどうか不明だったからだが、
 「やらなくていいですよ、却って面倒臭がられるだけですよ」との助言を貰った。で、やらなかった。案の定というか、大学生たちは階段や廊下ですれ違っても挨拶しない、どころか、目を合わせようともしない。オッサンとは関わりたくないようであった。
 アパートには学生で無い住人もいる。服装から建設業関連と思われる若者が2人いて、彼らは会えば挨拶する。同じく元建設業関連肉体労働者の私としては、彼らと親しく声を交わしてもう少し関わっても良いと思っているが、彼らから見るとオッサンの私と関わっても楽しく無いかもしれないので、今のところ遠慮している。

 300坪の畑なっぴばる。12月からホウレンソウが収穫できている。収穫はしているが売れてはいない。商品になるほどの大きさに達していない、市販のそれの三分の一の大きさしか無い。で、自家消費している。でも、売れてはいないが収穫は嬉しい。
 今月からはウズラマメも収穫できている。これは十分な大きさに達しており売れると思われるのだが、量が少なくこれも自家消費。でも、食べて美味しいので嬉しい。
  収穫も嬉しいのだが、畑では他にも幸せを感じることがある。近所の農家たちとのユンタク(おしゃべり)だ。私は孤独癖があり、他人と会ってユンタクすることが好きというわけでは無い。が、けして人嫌いというわけでも無い。ユンタクも苦手では無い。
 北隣のウージ(さとうきび)畑の主Sさん、前歯の無い口を堂々と開けてよくしゃべりよく笑う。その向かいの、ジャガイモ畑のYさんは、太った人によく見られる人懐っこい顔をしていて、会うといつも缶コーヒーをくれる。他にもNさん、Kさんなどが私に声を掛けてくれる。有難いことだと思う。上述したように私はユンタクが好きというわけではない。何が有難いか?・・・私に関わってくれることが有難く、幸せに思うのだ。

 話は映画に戻る。貧しかったけれど小さな幸せがそこここにあった頃の映画の、そこここにあった小さな幸せとは人と人との関わりの中から生まれたのではないだろうかと思ったのである。隣近所の人たちといつも関わっていた、それが昔は普通だったのだ。
          

 記:2013.1.18 島乃ガジ丸