先週金曜日、ガジ丸HPのアップに指を忙しく働かせてパソコンのキーボードを叩いていた夕方、つけっ放しにしていたテレビからあるニュースが流れた。私の手が止まった。顔を上げ、テレビを覗き込んだときには、既にそのニュースは終わった後であったが、アナウンサーが口にした言葉は、耳に強く残っていた。
子供の頃から青春時代にかけて影響を受け、好きだった人が、また一人亡くなった。手塚治虫が死んだとき、アイザック・アシモフが死んだとき、司馬遼太郎が死んだときと同じような思いが心をよぎる。若い頃の私は勉強家では無かったので、影響を受け、好きだった人は数少ない。オジサンになってから、あれも知りたい、これも識りたいと思うようになったが、オジサンは感性が鈍っているのでなかなか影響を受けたり、好きになったりしない。したがって、私の(私が勝手に思う)師匠は少ない。指の数ほどしかいない。
指の数ほどしかいないうちの一人、嘉手苅林昌が死んだのは1999年、そのうちそのうちと思って結局、生の林昌の演奏を聴くことはできなかった。その後しばらくして、ラジオ局に勤めている友人と話す機会があった。
「林昌が死んだということはだ、彼(1920年生まれ)の次世代の人、林助(1929年生まれ)とか誠仁(1930年生まれ)たちもそろそろそういう歳ということか。生の林昌を観ることはできなかったが、林助と誠仁の生はぜひ観ておきたいな。」と言うと、
「林助と誠仁のジョイントコンサートが石川市の石川祭りで開催される。大御所二人のジョイントは珍しいと思うよ。行ってみたら。」と勧められた。
数年前、少なくとも1999年以降から2003年のある日(日記を調べれば何年何月何時頃というのが判るが、今手元に無い)、沖縄本島中部にある石川市で行われていた石川祭りに出掛けた。その祭りの催し物の一つで、珍しい組み合わせのジョイントコンサートが開かれた。珍しい組み合わせとは、照屋林助と登川誠仁。
石川市と林助と誠仁には共通項がある。石川市に歯科医を開業していた小那覇全孝という人が、林助と誠仁の師匠であった。小那覇全孝は芸名を小那覇舞天(おなはぶーてん)という沖縄では有名な漫談家。その時のジョイントコンサートもブーテンをテーマにしており、林助と誠仁、二人の話も先生、ブーテンの話が中心であった。
ブーテンは二人の弟子を一緒に連れ歩くことはなく、弟子の頃、林助と誠仁は顔を合わすことが無かったらしい。誠仁には音楽を、林助には漫談をと思ってのことだったのか、その後、誠仁は民謡で大成し、林助は「ワタブーショー」で一世を風靡する。
ワタは腹、ブーは太っているの意。ワタブーは太鼓腹のことを指す。林助のお腹は、私が子供の頃からワタブーであった。でぶった腹を揺らしながら面白い話をし、愉快な歌を歌った。そのユーモアがツボにぴったりはまって、私は涙を流しながら笑っていた。
林助の飄々とした笑い、とぼけた笑いが私の笑いの感性に大きな影響を与えている。林助にも「ワタブーショー」にも、たくさんの元気を貰ったと思う。感謝。
ジョイントコンサートで、沖縄産たばこバイオレットをプカプカやっていた誠仁は、顔にも声にも張りがあり、いかにも元気という印象であったが、林助は杖を頼って歩き、声にも張りが無く、笑いも弱々しい感じがした。思えばその頃から体も弱っていたのだ。
記:2005.3.18 ガジ丸