ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

手を繋げる幸せ

2007年06月08日 | 通信-政治・経済

 私は時々、痔が出る。時々という時々は、日本酒を特別飲みすぎた時とか、激しい運動を数日続けた時とかで、数年に1回くらいである。その期間が年々短くなったり、症状が年々悪化するということは無いので、痔が私の持病であるとは言えないと思う。
 私の持病は他にある。最近までそれが病気などとは思わなかった。ただの体質、おっぱいが大きいとか小さいとか、体毛が濃いとか薄いとかと同じようなものだと思っていた。2、3年前だったか、新聞だったか雑誌だったかで、「多汗症は病気です。治療が必要です。」なんていうような広告を見て、「あー、病気なんだ」と認識した。そう、私は多汗症である。多汗症という言葉もその広告で知ったのであった。
 緊張した時には間違いなく、そうでない時も時々、私は手の平や足の裏に激しく汗をかく。多汗症という言葉を知るまで、私は私の手のことを脂手だと思っていた。「脂手」は広辞苑によると「脂肪の分泌量の多い性質の手」のこと。しかし、私の手から滴り落ちる水分は油では無く、汗である。よって、多汗症なのである。多汗症は「生理的または病的に多くの発汗を来す皮膚の病症。全身性と局所性とがある。」(広辞苑)とのこと。

 「そんな子供じみたマネ恥ずかしい」という理由も2割くらいあるが、緊張すると手の平にしたたか汗をかくという理由が8割くらいで、私は女性と手を繋ぐことがあまり好きでない。最近はどうか知らないが、私の年代が結婚適齢期にあった頃は結婚披露宴の余興でよく歌われた松田聖子の『赤いスイートピー』、その歌詞の中に「付き合って半年経つのに、あなたって、手も握らない」というフレーズがあるが、「握りたくても握れない理由もあるんだ」と、若い頃の私は、その歌を聞くたびによく思っていた。

 実際に手を繋ぐことは好きでないが、心の手は繋ぎたいと常々思っている。それは、惚れた女性なら100%、嫌いでなければ男でも女でも、できるだけ手を繋げる仲でありたいと思っている。そうすることによって、平和であるようにしたいと望んでいる。
  中学だったか、高校だったか、漢文の授業で、「莞爾として笑う」という言葉が出てきた。その言葉は、「鷹揚に笑う」というイメージで私の心に染み付いた。中国の広大な大地に生まれ育った、ある程度の大人(おとな、で無く、たいじん:徳の高い立派な人という意)ならば、おおらかな性格をしていて、自分に多少の不利益があっても、「カッ、カッ、カッ、まぁ、いいってことよ」と鷹揚に笑って済ませるというイメージである。
 「莞爾として笑う」はしかし、広辞苑によれば「にっこりほほえむさま。にこやか」とある。特に、寛大とか鷹揚とかの意味があるとは書いていない。少なくともカッ、カッ、カッでは無いみたいである。でもまあ、ちょっと嫌なことがあっても、「にっこりほほえで」許す位の意味はあろう。中国の大人は慈悲深いのである。

 先だって、中国の首相が日本を訪れた。滞在中、彼は概ね「にっこりほほえむさま。にこやか。」であった。いかにも、中国の大人であった。
 ケンカして勝つより、手を繋いで楽しく歩けることの方がはるかに幸せなことだと私は思う。靖国参拝なんて瑣末なこと。A級戦犯を別にするなんてことも簡単なこと。どちらも隣人同士が手を繋ぐ幸せに比べれば何ほどのことも無い。・・・と私は思うのだが、面子の方が命より大事って思う人も多いんだろうな。幸せは簡単じゃないね。
          

 記:2007.6.8 島乃ガジ丸