「由らしむべし知らしむべからず」という言葉を最近思い出した。「人民を為政者の方策に従わせることはできるが、その理由を理解させることは難しい。俗に、人民はただ従わせればよく、理由や意図を説明する必要はない。」(広辞苑)のこと。
後期高齢者医療保険がいったいどいう制度なのかということについて、じつは、私はよく理解できていない。何しろ、75歳の人たちにさえ十分な説明がなされなかったらしいのだ。説明の書かれたパンフがあるらしいが、それも、いかにもお役所仕事らしく、文字数が多くて、見た目が煩雑で、解りにくい説明となっているらしい。読んでもらおうという姿勢が感じられない。「由らしむべし知らしむべからず」ということみたいである。
このように、「由らしむべし知らしむべからず」は、自由民主主義の日本国でさえまだ残っているみたいだが、中国の政治がまさにそう言えるかもしれない。
「チベットに自由を」は、本来自由であるべき人間の切実な叫びだと思う。その叫びに対し抗議する中国の若者達が多くいることに、「何で?」と私は思った。ナショナリズムに走る中国の若者達は、おそらく、中国政府による言論統制、情報操作によって、知るべきことを知らされていないのではないか、と思ってしまった。
思慮の足りない言動で世の中を騒がせている大阪府知事であるが、私は、彼の一所懸命さには好感を持っている。彼の姿勢は、「由らしむべし知らしむべからず」から遠く離れている。とにかく自分の考えを述べる。それを説明する。訴える。なので、彼が何の目的で、何をどうしたいと思っているかが良く理解できる。応援したくなる。
大阪府の市町村長を集めて、知事が政策の説明をした時に、「あんた、それじゃあ、弱者への福祉を切り捨てることになるよ。」なんて言っていた首長さんがいたが、「予算が減らされたら、何で最初に弱者の切捨てから始まるんだ。」と私は思ってしまった。切り捨てるのは無駄な出張、無駄な遊興費、無駄な人件費、無駄な道路など先にやることはいくらでもあるはずだ。「大阪のために我々もできる限りの努力をしましょう。」なんて言える首長はいないのだろうか。今まで通りで良いと思っているのだろうか。
いくら年下とはいえ、府知事にタメ口をきくような無礼な石頭どもに負けず、知事にはこれからも頑張って欲しいと思う。ただ、しかし、涙はいけない。あれは、ヒラリー大統領候補の涙と変わらない。一部の支持を得るかもしれないが、卑怯である。
女女しいというと世のフェミニストから抗議を受けそうだが、女々しいは「ふるまいなどが女のようである。」(広辞苑)、あるいは、「柔弱である。いくじがない。未練がましい。」(同)のこと。知事の涙は、まったく女々しい涙であった。向かい風がいくら強くても、泣いてはいけない。リーダーは意気地無しでは勤まらないと思う。自分の思い通りにならないからといって泣くのは子供である。子供の振りは卑怯である。
大人という言葉が思い浮かぶ。この場合の大人はオトナでは無くタイジンと読む。徳の高い立派な人のことを言う。ダライダマという人を私はよく知らなかったが、テレビに映し出される言動から見るかぎり、まさしく大人である。それに比べ、彼と話し合いをしようともしない中国の首脳部は、卑怯な小人(ショウジン)に見える。
記:2008.4.25 島乃ガジ丸