ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

依存症

2009年09月18日 | 通信-社会・生活

  一ヶ月も前からワイドショーで話題にされ続けている某元アイドルについて、私は彼女のファンであったことが爪の先ほども無かったので、特に感想は無い。ついでながら、私が青春だった頃はキャンディーズやピンクレディーの全盛期、ただし、その頃の私は彼女達でなく、河合奈保子のファンであった。「可愛くて巨乳」に惚れたんだと思う。私の周りに「可愛くて巨乳」がいなかったせいだと思う。・・・などという話では無く、
          

 依存症というものについて、ちょっと考えてみた。
 私の周りには、「可愛くて巨乳」はいないが、アルコール依存症ではないか?タバコ依存症ではないか?ギャンブル依存症ではないか?と疑われる人々はいる。
 同僚のMは、緊張する仕事の前後にはチェーンスモーカーとなる。チェーンスモーカーという言葉を知らない人もいると思うので、説明すると、チェーン(くさり)のように煙が途切れることなく何本も続けてタバコを吸う人のことを言う。緊張する仕事の前は不安で、緊張する仕事が終わった後はホッとして、タバコに手が伸びるのだと思う。
 ギャンブル依存症は、儲けた時の快感が忘れられなくてなのか、負けた時の悔しさを忘れるための再挑戦なのか知らないが、ウチナーンチュにはたくさんいる。お陰で、沖縄のパチンコ屋、スロットマシン屋は繁盛しているようである。
 アルコール依存症は、アルコールに対してコントロールの効かない人がいることを知っている。そういう友人が身近にいる。フラフラになるまで飲んで、喚いたり、絡んだりして周りの顰蹙を買う。そんな時は鬱陶しいと思うのだが、根はイイ奴である。

 依存症というほどでは無いかもしれないが、「酒無くして、何の人生ぞ。」と思うくらい、私も酒が好きである。仲間達とワイワイ騒ぎながら楽しく酔っ払うことが好きなのでは無く、一人で静かに飲むのが好きである。一人で毎日たらふく飲むようになるとアルコール依存症になるかもしれないと思って、週に2~3日の休肝日を設け、フラフラにならない程度の量(ビール1缶+泡盛の水割り3~4杯程度)に押さえている。
  要は、自らの欲望をコントロールすることであろう。「この辺りで適当」と判断し、自らの意志できっぱりと止める。それができれば、依存症にはなりにくいと思う。
 もう一つ、同僚Mのタバコについて言うと、緊張時の一服は不安を忘れるためのもの、これが習慣化すると、不安を感じるたびにタバコを吸うことになり、タバコが無ければ不安を処理できないという体質になる。これは良くない。ホッとしての一服は、それが1~2本程度なら、タバコの美味さを感じることができるだろう。タバコの美味さを感じることができたら、何本も続けて吸うことが勿体無いと思うようになるだろう。
 酒も同様のことが言える。辛い時、辛さを忘れるためにぐでんぐでんに酔っ払ってしまうのは精神にも肉体にも悪影響を及ぼす。嬉しい事があった時、楽しく酔っ払うと酒はこよなく美味い。酒は美味いってことが解ると、なかなかぐでんぐでんにはなれない。

 ギャンブルは酒やタバコと違い、体は関係なく心の問題。依存症からの脱却は「俺は明日から歯を磨くことを止める」のと同程度の覚悟で足りるのではないかと思う。麻薬依存症については、私の周りにそのような人はいないので、述べる意見は無い。
          

 記:2009.9.18 島乃ガジ丸


空気が薫る人 

2009年09月18日 | 通信-音楽・映画

  桜坂劇場の只券が2枚ある。どちらも9月(20日頃だったか)が有効期限。只券は毎年3枚ほど頂くが、映画を観に行く時間が作れなくて無駄にすることがたびたびあった。今年こそは全て有効活用しようということで、先週土曜日、特に観たいと思う映画はやっていなかったのだが、父のパソコン教室を終えた後、出かけた。

 桜坂劇場からは上映スケジュールや上映映画の概要などが載っているチラシが毎月送られてくる。それに目を通し「特に観たいものは無いなぁ」と思ったのだが、それでも、監督としての評価が高いらしい西川美和監督作品の『ディア・ドクター』と、役者としては評価が高い役所広司が、初監督した作品『ガマの油』に少々興味を引かれる。
 主演「笑福亭鶴瓶」と主演「役所広司」とでは、後者に断然軍配が上がるのだが、時間の都合で、観る映画は『ディア・ドクター』となった。

 『ディア・ドクター』は良い映画であった。流れる音楽もブルージー(エンディングに流れた唄も同様)で私好みであった。言いたいことも良く理解できた。最後、主人公の偽医者とそれを追う刑事二人が駅のホームに立っていて、「あー、いよいよ捕まるのか。」と思っていたら、特急らしき電車が通り過ぎた後、刑事二人はそのままの格好で残っていて、偽医者だけが忽然と消えていた。それには、「どうして?なぜ?どうやって?」などの疑問が起こり、ラストシーンの、大病院に入院している八千草薫の前に、偽医者が看護師みたいになって現れたことにも同様の疑問が起こったが、気分的には、「そうだよな、そうあって欲しいよな。そうあるべきだよな。」という満足感があった。

 八千草薫、この映画の準主人公といってもいいくらいの役であった。死ぬまでの暮らしがどうあるべきかを、彼女を通じて観客も考えさせられる。
 八千草薫、何しろ芸達者なのである。表情一つで百を伝えることができる人だと思う。この映画には他にも芸達者の役者が多く出ていたが、私は彼女に最も惹かれた。
 彼女は私が子供の頃からテレビドラマでお母さん役をしていたが、この映画でもお母さん。人の心の痛みを知るお母さん、他人にも我が子にも気を使うお母さん、優しいお母さん。そこに存在しているだけで、そんな空気が薫る人だと感じた。
          

  その日は映画の後、模合(相互扶助的飲み会)があった。空気が薫る素敵な女優を観た後に、加齢臭を発散させるオジサン(もちろん私も含む)たちとの飲み会。残念ながら、私の周りに空気が薫るような人はいない。それは、まだ若いからということでは無い。同年代であろう役所広司にはそれがある。役所広司に限らず、上手い役者には薫りがある。薫りを作り出す技を持っているから役者、ということなのかもしれない。
 模合の場所は首里の居酒屋。そこの若いお姉ちゃんのメークが、テレビでもよく見る今時のメークであった。それとほぼ同じメークを模合仲間Tの娘がやっていた。それはしかし、今時の匂いはするが、周りの空気は薫らない。ふむ、そうか、ならば、そのメークはきっと、オジサンの加齢臭と同レベルの現象に違いない。若い女性に相手にされないオジサンはそう判断して、「加齢臭と一緒だぜ、ざまーみろ。」と思うのであった。
          

 記:2009.9.18 島乃ガジ丸