ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

こうこうしたい時

2010年09月17日 | 通信-その他・雑感

 「こうこうしたい」は、「孝行したい時に親は無し」の孝行では無い。不肖の息子は、そういうことはあまり思わない。母親は、尊敬できる人であったが、人生の価値観で私とはいろいろ確執があった。父親は、指図好きな人で、指図されるのが嫌いな私とは性格が合わなかった。それでも、実家を離れ、アパート暮らししてからは、適度な距離を保っての付き合いができたと思う。互いに憎み合うことはこれっぽっちも無く、会えばいつも、にこやかな時間を過ごすことができた。それが私の親孝行のつもりだった。

  アパートの、私の部屋に白蟻が発生して、避難を余儀なくされ、7月の一ヶ月間、実家で暮らした。実家で一晩寝るのは10年ぶりくらい、二晩以上続けて寝るのはアパートへ越して以来初めてで、17年ぶりくらいとなる。
 母が死に、父が死に、誰もいなくなった実家に一ヶ月。元自分の部屋を整理し、父の部屋の本棚を整理し、門前を整理し、ベランダや屋上を整理し、物置を整理し、居間を整理し、台所の棚の一部と冷蔵庫の中を整理していくうちに、あることに気付いた。
 壊れて使えない運動器具が父の部屋にある。大きいので部屋の邪魔になっている。できれば処分したかったのであろうが、重いので、女の母には持てず、右半身が多少不自由な父にも持てず、よって、そのままにしておいたのであろう。処分すべき重い物は玄関前にもある、壊れたマッサージチェア、これもずっと置きっぱなしだ。重くは無いが処分すべきか直すべきか悩んだと思われる壊れた扇風機や自転車もあった。
  室内の床の一部に塗料が塗られている。父が塗ったと思われる。仕事としたならばまったく金の貰えない、逆に損害賠償を要求されかねない不味い出来。コーティングの残ったフローリングには使えない塗料を使ったせいだ。
          
          
 居間にはDVDレコーダーがあるが、使われた形跡が無い。DVD媒体が1枚も無いことからも使ったことが無いということが判る。電気屋さんに勧められて買いはしたが、年寄二人には、その使い方を覚えるのが面倒であったようだ。

 不要な物は処分したい、壊れている物を直した方がいいかどうか判断したい、ところどころ塗装の剥げた床に塗料を塗り直したい、などなど、父も母も「こうこうしたい」と思うことがいくつもあったのだろう。私が一緒に住んでいれば、それらを私に頼んだに違いない。木工を趣味としていたので、塗装の知識も私にはある。
 年に数回しか顔を見せない息子に、「会社の景気はどうだ?」、「元気ねぇ、ちゃんと食べている?」、「お中元の品、好きなもの持っていけ。」、「天ぷら作るから持って帰りなさい。」などと二人は言い、息子の近況を聞き、世間話をしているうちに、普段「こうこうしたい」と思っていることを言い忘れてしまうのだろう。
 荷物運びや塗装では無い他の雑用で、父には何度か呼び出されたことがある。しかし、母にはそれが無かった。「こうこうしたい」と思った時も、肉体労働で疲れている息子を呼び出すことに遠慮があったのかもしれない。その母が、亡くなる一年ほど前、「年賀状をパソコンで作ってくれない?」と電話してきた。その前年も同様のことを頼まれ、その時はやってあげたが、その年は仕事が忙しくて、断った。滅多に頼み事をしない母であった。やってあげれば良かったと、その半年後、母の病気を知った時に後悔した。

 記:2010.9.3 島乃ガジ丸


泊港

2010年09月17日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 前にガジ丸HPの何かの記事に、「高校の校歌はある程度記憶しているが、小学校、中学校の校歌は思い出せない」といったような内容の文を書いたが、小学校の校歌の一節に泊港が出てきたことは覚えている。校歌では、泊港を「とまりみなと」と発音した。とまりみなとで思い出した。歌い出しは「泊港を前にして、小金の森を背なに負い」だった。うーーん、その後は出てこない。愛校心の薄い奴である、私は。
 泊小学校の校歌がいつ頃できたのか不明だが、泊港(とまりこう)は歴史が古い。『沖縄大百科事典』に記載がある。13世紀には既に港として整備され、泊港のある泊村は琉球王朝時代には物資の集散地として、首里王府の直轄地となり栄えたとのこと。

 『沖縄大百科事典』にある泊港の説明を要約すると以下、

 泊港は本土復帰(1972年)前までは独立した港であったが、以降は那覇港の一部。
 ちなみに、那覇港は、那覇埠頭、泊埠頭、新港埠頭、浦添埠頭の4つからなる。
 古くから天然の良港であった。
 13世紀には首里王府によって、港の公館が建てられ、中国との貿易港ともなった。
 14世紀後半には、那覇港が貿易港となり、泊港は内国船の港となった。

  歴史ある泊港は今でも、沖縄を旅して、沖縄島近辺の離島(慶良間諸島とか渡名喜島とか久米島やら)まで足を伸ばした人なら概ね知っている港。それらの島々へは泊港から船が出ているので、慶良間や久米島へ船で行く場合は泊港へ行かざるを得ない。
 泊港には南岸と北岸があり、南岸側に大きなターミナルビルがあって、そこからは主に久米島航路の船が発着していた。北岸のターミナルビルは小さくて、そこからは主に慶良間諸島航路の船が発着していた。今も当時とそう変わらないと思うが・・・調べた。
  現在の発着場は、南岸の奥から南北大東島、久米島フェリー、粟国島フェリー、渡嘉敷島フェリー、座間味島フェリーと並んで、北岸は渡嘉敷島や座間味島の高速艇となっている。フェリーの発着場が南岸にあるのは車の出し入れが便利だからだと思われる。
 各乗船券の発券場は南岸のターミナルで全て購入できるが、渡嘉敷島や座間味島の高速艇は北岸のターミナルでも購入できる。

 今の南岸のターミナルビルは私が若い頃のものに比べると遥かに大きい。トマリンという愛称も付いている。ビルの中にはホテルがあり、土産物屋、飲食店、スーパーなどのテナントがいくつもあり、那覇市の行政組織の一部も入っている。
 北岸のターミナルビルも私が若い頃のものより少々大きくなっているかもしれない。いつごろか不明だが、建て替えられたものと思われる。それとは別に渡嘉敷行き高速艇の発券場が近くに建てられていたが、これは、昔は無かった。昔と言えば、北岸には砂山があった。建設用資材の砂だ。小学生の頃、その山で遊んだことを覚えている。
 北岸と接するようにして泊漁港がある。30年ほど前に那覇市の漁業生産流通の拠点として整備され、最近ではイユ(魚)市場なる海産物の小売店が集合する施設もできて、魚が新鮮、安い、美味いなどと、ちったぁ名の知れた場所となっている。

  高校二年生の時に久米島キャンプ、三年生の時に慶良間諸島(渡嘉敷だったか座間味だったか阿嘉だったか、それらのどれか)へキャンプに行ってから、久米島へは5、6回、慶良間諸島へは10回以上私は行っている。久米島へは一度飛行機で行っているが、その他は全て船旅、泊港から出て、泊港に帰っている。
 高校二年生の時から数年間は、久米島や慶良間諸島にキャンプや合宿で毎年のように行っていた。その頃は、それぞれの船は小さく、久米島航路は片道5時間ほどであった。10年ほど前に久米島へ行っているが、その時は船も大きくなっていて、片道3時間ほどとなっていた。慶良間諸島も片道2時間近くはかかっていたと記憶している。泊港の時刻表を調べると、現在は片道70分、高速艇だと35分とのこと、速ぇー。

  のんびりとした船旅、まだ未成年であった時も、私は良い先輩達に勧められ、たいていビールを飲んでいた。デッキに出て、風に吹かれながらビールを飲む。その時見た青い空や青い海の映像はとても印象的で、今でもその映像が浮かぶ。がしかし、船に乗ったり降りたりした際の映像がまったく浮かばない。なので、今の南岸と大きく違う当時の南岸の景色が思い出せない。北岸はたぶん、当時と現在とそう大きくは変わっていない。
 慶良間行きの船を見送った、若かりし頃の映像が鮮明に思い浮かぶ。当時友達付き合いしていた女性が、大学のサークルの合宿で慶良間に行くというのを見送った。船が岸壁を離れて、船首の向きを変えるまで彼女を見ていた。彼女も私を見ていた。その彼女の顔が脳裏に焼き付いている。「自分にとって大切な人かも?」と思わぬでもなかったが、当時私には恋人がいて、愛欲の世界に溺れていた。・・・本題とは関係ない話だが。

 母の葬儀や父の葬儀の時、本家筋のT兄さん(父の従兄にあたるが、年齢は父より私に近いのでオジサンでは無く兄さんと呼んでいる)から詳しく聞いたが、私の家は元々泊村の住人で、琉球王朝の時代は下級武士(上級武士は首里に住む)で、T兄さんの親の代までは物資を運ぶ船乗りであったらしい。泊港を拠点にし、そこから名護へ行き、那覇から食器などを運び、ヤンバルの薪などを那覇に持ち帰ったとのこと。
     
     
     
     
     
     

 記:2010.9.9 ガジ丸 →沖縄の生活目次